小説『三月の5日間』(岡田利規)

●「新潮」の12月号に載っていた『三月の5日間』(岡田利規)を読んでから、白水社から出ている戯曲『三月の5日間』を読み返してみて、改めて戯曲『三月の5日間』がすばらしく面白いと感じた。小説の方も決してつまらなくはないけど、戯曲と比べると、小説という形式にちょっと気を使い過ぎているように感じられてしまう。ただ、戯曲とはいっても、ぼくは演劇をろくに観たことがないし、チェルフィッチュも観てないので、戯曲を、舞台を想定して読むことはできなくて、小説のように読むしかなくて、つまり戯曲を小説のように読んだ方が、小説よりも小説として面白い、ということなのだ。おそらく戯曲の方は、「読まれる」ものとして書かれたのではなく、パフォーマンスを成立させるための行程のひとつとして書かれているのだと思う。つまり作者としてはそれはパフォーマンスと切り離せないものなのだろうが、それを読者として独立したものとしてパフォーマンスと切り離して読んで面白いのだ。他方、小説はといえば、それ自体「独立したもの」として読ませるための仕掛けがいろいろと工夫されていて、そしておそらくその工夫は(小説として)間違ってはいないのだろうけど、しかし(戯曲のリアリティに比べると)それってあまりにも「小説」っぽすぎるんじゃないかと思えてしまうのだ。(例えば、ミッフィーちゃんが映画館の壁に「薄い灰色のあまり目立たないシミ」を見つけてしまうところとか、小説の罠にはまっているように思うし、ラストの、ホームレスを犬と見間違えてしまうエピソードも、小説にするとあまりに「小説のオチ」っぽく感じられてしまう。)小説の方は、全体として外側から規定される「小説」という形式に押し込まれてしまって、十分に押し返すところまではいかなかったように感じられる。
●戯曲『三月の5日間』はテキストとして、小説よりもずっと冗長で、様々なところに気が散ってゆく。その冗長さと散らかった感じは、そこにパフォーマンスが入り込むこ余地を予想させるものでもある。例えば、言葉として冗長でもパフォーマンスとして充実してればよいのだし、気が散ってゆく感じも、舞台の上に同一人物が居続けることで連続性が保たれる、のかも知れない。しかし、そのようなことを読む時に考慮しなくても、たんに言葉を追うだけで十分に充実しているし、持続性も感じられる。いや、むしろ充実の度合いや持続性が不安定であるからこそ、惹き付けられる。戯曲『三月の5日間』の面白さは、まず何よりも語りのあり様にある。それはたんに語りの形式が面白いということではなく、誰かが別の誰かに何かを「語る」という行為が成立するための「場」(の不安定さ)こそが捉えられているからだと思う。
この戯曲は、ある事件の起きた現場を直接表象しようとしているのではなく、ある「語り」のあり様を通して、「語り」が成立する「場」を、捉えようとしているように思う。「語りが成立する場」(語りを支える基底的なもの)とは、「図」と「地」ということで言えば「地」であり、「地」そのものを直接示すことは出来ない。だから、「語りが成立する場(地)」は、「語りのあり様(図)」を示すことによって間接的に示すしかない。
●小説『三月の5日間』で、戯曲と最も大きく違っているのは、カナダの俳優たちによるパフォーマンスのシーンだろう。(戯曲では、カナダから来た、決して上手とは言えないバンドのライブだった。)戯曲では、このライブは男の子と女の子がたまたま出会うための場所くらいの意味しかないが、小説では、このパフォーマンスの様子が丁寧に描写される。しかしこのパフォーマンスの描写は、妙に説明的なのではないだろうか。言い換えれば、戯曲では「語りのあり様」としてあくまでパフォーマティブに示されていたものが、小説ではパフォーマンスの様子として説明されてしまっているのではないか、ということだ。これは小説としては正しい書き方かもしれなくて、このような書き方は人を納得させはするかもしれないけど、そういうことと「面白い」ということとはあまり関係がないと思う。これは小説『三月の5日間』がつまらないということでは決してなくて、そんなに「小説」に気を使わなくてももっと好き勝手にやればいいのに(勿体ない)、という感じなのだ。
●戯曲『三月の5日間』では、何が語りを支えているのだろうか。それはまず、友人同士の間にあるような「親しい」雰囲気ではないだろうか。(この戯曲の語り手は誰でもない誰かであり、しかも複数存在しているが、それでも、ここで語られている若者たちにきわめて近しいものたちであることは間違いなく思われる。)しかし語り手は、いきなり読者(観客)までを「親しい」友人のような雰囲気に持ち込むことは出来ないので、まず、あまり事情を知らない、それ程は親しくない人に向かって説明するような口調から(「これから○○っていうのをやります」みたいな)入って、隣にいる友人(例えば男優1から男優2へ、といった感じで)話を回したりしているうちに、相槌や頷きなども交えて、なんとなく「親しげ」な雰囲気へ持ってゆく。(冗長性は、このためにも機能する。)だが、語りかけられている側(読者=観客)は、必ずしも語り手(というか、語られている人物たち)親しい者とは限らない。ここで語られている「渋谷の若者」とは世代も価値観も違うという場合の方がむしろ普通であろう。だから、この戯曲の語りは「それ程は親しくない人に向かって説明するような口調」と、その親しくない人たちまで包み込んでしまうような「親しさ」との間を、かなり不安定に揺らいでいるように思う。つまり「語り」を成立させる基底的な「場(雰囲気)」は、前もって「ある」のではなくて、語り手が「語る」というその都度のパフォーマンスの成否によって不安定に揺れ動く。この戯曲の複数の語り手たちは、「語りたい事」を語るだけでなく、その「語り」を成立させる場をつくるために「語る」というパフォーマンスをする必要がある。だから、その都度相手との関係を測りつつ、冗長になったり、気を散らせたり、迂回したりしつつ、少しずつ「語り」を進めてゆくしかない。(それは下手をすると、常に相手との関係の失調を先取りしてドツボにはまってしまうミッフィーちゃんのようになってしまう危険と裏腹なことでもあろう。)しかしここでは、冗長的であることや迂回することそのものが目的なのではなく(つまり、あみだくじ的な、横道の逸れることそのものの目的化ではなく)、その向こうにあきらかな語りたい「何か」がみえるように思う。そしてその「語りたい何か」は、語りの「場」(語りを支える基底的なもの)が前もって確定されないような不安定な語りのなかでしか、語ることの出来ないものなのだと思う。