●作品を観に、お客さんが二人、アトリエに来た。普段、人の「つくったもの」について好き勝手なことをいろいろと書いているわけだけど、自分の作品を(目の前で)他人に観られるということには、当然だけど、独特の緊張があるのだった。作品についての感想を聞くことが出来るということは(それが否定的なものであっても、下らないものでさえなければ)とても嬉しいことなのだが、口にされた(形にされた)「言葉」というのはどうしても強い拘束力を持つもので、ぼくの「制作する身体」は(無意識のうちにも)どうしてもその「言葉」に引っ張られがちになる。しかし、言葉以上に「他人の視線」というものは何か(ほとんど「物理的」と言いたいほどの)強い力をもつもので、「他人の視線」の入った後のアトリエは、何か空気がざわついていて、それがいったん納まるまで、制作は滞ることになる。(例えば、展覧会などで作品を発表して他人の目に触れると、その後、制作を再開するのに、ちょっとした仕切り直しのような「きっかけ」や時間が必要となる。)他人の言葉や視線によって、(無意識まで含めた)「身体」がゆらぐということがおそらくコミュニュケーションということで、それによって新たな「気付き」を得ることもあるし、方向を見失って(見誤って)しまうこともある。
それにしても、作品をつくるときの意識と無意識のあり様というのはとても微妙なものがあって、自分がこれからつくろうとする作品について、何も知らなければ勿論制作することなど出来ないが、多くを知り過ぎていても、同様に、制作することは出来なくなってしまうのだった。
●「新潮」の2006年1月号が届きました。ぼくはこの号に、ジョナス・メカスの『どこにもないところからの手紙』の書評(「歴史のなかの小さな場所」)を書いていますので、興味のある方は読んでみてください。