07/10/24

●「文藝」に載っている「肝心の子供」(磯崎憲一郎)についてのメモ。
●まず、文章がとても面白かった。淡々と一定の調子で流れ、すべてが終わった後で、すべてを把握した人物によって綴られているかのような調子でありながら、時折、とてもなまなましい場面が描かれる。これは、語り手のような特定の主体が想起されるというよりも、個人の身体や感覚を超えた(そこから一旦切れた)言語によって可能になった、言語自身が自動的に語るかのような語りであるように感じらた。すべてが終わった後から語られるような、波乱や動揺をカットした安定したの調子が、些細な出来事や描写の表情をかえってきわだたせ、大きな流れを通観するような機械的な記述の進行が、逆に、そのなかにいる個々人の生きる別々の時間のことなりを際立たせているような。世界と個人の身体との間の緊張した利害関係から切れたところで、はじめて可能になる認識が語られる。そして、その突き放したような記述の安定感が、利害関係のただなかで(現在を)生きる読者に対して、安定を与える(死の恐怖を軽くする?)ような作用があるようにも思わた。
ブッダとヤショダラとが共に城で暮らしている小説の最初の部分が、ぼくにはとても魅力的に思えた。互いにまったく別の方を向きながら、生活の形式のみを共有しているかのような。(特に、三日間ネムの木の下に居つづけたブッダにヤショダラがお粥をもってゆく場面。)
ラーフラとヤショダラとはしかし、そのように生活習慣を形式としてさえ共有することが出来ない。ラーフラは、あらゆる蛙の違いを識別出来、しかもその違いを記憶出来る。だから蛙を、どれも同じ蛙一般として処理できない。だから、日々異なる事柄を、繰り返される生活の習慣や形式上の反復として処理することも出来ない。それは、ひとつひとつ違うものになってしまう。ラーフラは、無限の細部をもつ外側の世界を、内的形式によって縮減して、それにあわせて制御できない。あらゆる出来事は同等で、偶然であると同時に必然であって、世界を法によって秩序化できない。
ブッダにとって、うつくしいアショダラを妻として選んでしまうことは「屈服した」ような感じを与えるのだけど、息子のラーフラにとって女性(色欲)はまた違った意味をもっているように思えた。あらゆる事柄を、それをそれとしてそのまま記憶として保持しているラーフラにとって、あらゆる記憶が同等に重要であって、しかもそれが際限なく増え続ける。そのような記憶の重さに押しつぶされそうであったラーフラは、サリアに対する(自身にとって意外ですらある)欲望によって、世界の細部に濃淡が生まれるというか、ある方向付けが生まれたのではないかと思われる。そのことは、無限に増え続ける記憶の重荷を軽くする。色ボケして愚かになることが出来る。(アシャダラは、自身の生活環境=習慣を自身でつくりあげ、それを維持するような女性だが、サリアは、熱し易く冷め易い、楽天的ですぐにあきらめる性格をもつことも、ラーフラにとって重要だっただろう。生活習慣の組織化は、世界の偶然が自己の安定を脅かすことへの高度な防衛であるが、楽天的であきらめやすいことは、自己、あるいは記憶のへ関心と執着の度合いの低さをあらわしていると思われる。アシャダラは腐り難い食物である米をもたらすが、サリアは腹が減れば、世話になった農家から平気で肉を盗み出す。ラーフラにとってはすべての記憶が自ずと蓄積されてしまうので、ことさら米を蓄積するような行いが耐えられない。)
ブッダは、この世界に実在する別の者である息子を生み出したことで、この世界に対する責務を果たしたように思われ、何かから解放される。(例えば、美しい妻に惹かれてしまうということも、自分を世界の責務へと結びつけておく一つの働きのようなもので、息子が出来たことで、そのような結びつきから解放される、というような。)しかし息子のラーフラは、そのような世界との意味的な関連やそこからの解放というような問題は成り立たない。世界の無限の差異を、それとしてそのまま受け取ることが出来、記憶してしまう者にとって、それぞれの物が「それがそれとしてある」ということ以上に重たいものはなく、しかしそれは意味ではないのでそこから解放されることもなく、おそらくそれ以上の強い関心(色欲や修行のような?)によって、その重さからしばし解放されることが出来るだけだろう。(あるいは、知覚対象の明確さが揺らいで世界が振動と化すようなローヒニー河岸での体験のようなものによって。)ブッダラーフラのような裕福な生まれではなく、世界のなかで自分が生き延びることを第一の関心としなければならないラーフラの息子ティッサ・メッテイヤは、父や祖父のような「重さ」を感じる余裕もなく、ただ虫に魅せられ、虫を飼育するという行為を通してのみ思索する。ここで、ティッサ・メッテイヤと、彼に飼育されるカブトムシやクワガタとの(時間における)主従関係は、この小説の語り手と、語られる者たちとの関係を想起させるもののようにも思われる。ただ、ティッサ・メッテイヤは、役にも立たない虫の飼育をするという意味で変わった子供(思索する子供)であるが、「虫の飼育」という具体的行為から、思索を切り離して抽象化するほどには、彼の生には余裕がない。だから、この虫の飼育という思索の形態は、ブッダの宗教や、アショダラの生活習慣の構築のように確固としたものではないが、ラーフラのように形式が成り立たないわけでもない、小さな形式としてある。(ただ、小説としては、主にティッサ・メッテイヤについて語られる終盤部分で、記述がやや平板な感じになるようにも思えた。)ここで、それそれの思索の形や道筋は、もって生まれた資質や、生まれた条件という偶然に、あくまで支配されているように思われる。
ブッダ-ラーフラ-ティッサ・メッテイヤという流れとは別にある、マガダ国王ビンビサーラのエピソードも、とても印象深い。自分を緩慢に殺そうとする息子への憎しみと、幼い頃の息子が病気から生還することを本気で望んでいた記憶とか同居することに苦しむビンビサーラにとっての記憶の重さは、ラーフラがもつものとはまた別種のものであるように思われる。そして、ことなる感情の同居が、彼に現実と夢との区別を失わせることになるものまた、必然であるように思われる。(このビンビサーラの感じこそが、ぼくにとっては最も親しいものかも知れない。)