岡本太郎「明日の神話」

●先日、デュマス展を観に東京都現代美術館へ行った時、常設展示のスペースで岡本太郎の「明日の神話」が展示されていた。はじめて太陽の塔を観た時(本当は三歳の時に両親に連れられて大阪万博へ行っているので、その時に観ているはずなのだが記憶がない)、とにかくその「大きさ」に驚いたのだが、「明日の神話」もやたらとでかい。ぼくはこの作品を「絵」としての「質」を問うことの出来るようなものではないと思う。しかし、こんなに大きな作品を、(絵としての質に対する迷いや逡巡をほとんど感じさせない勢いで)平気で成り立たせてしまう力強い生産力というのは一体何なのだろうかという印象をもった。だいたい、フレームの中心にレリーフ状に盛り上がった骸骨があって、そこから放射状に力が広がってゆくような構図なんて、多少でも絵画をまともに考えている人ならあり得ないわけだし、というかその前にそもそも、こんなにでかい画面が絵画として成り立つのだろうか、という、画家なら当然持つような恐れというか疑問すら頭をかすめることもなかったのではないか思われるような、大胆な楽天性に貫かれていることに驚く。構図としてもたない部分には、平気で後から描き足した落書きみたいなものを描き入れて、それでOK、みたいないい加減さなのだ。
岡本太郎楽天的(で拡張的)な生産性は、おそらく彼の「縄文」の発見と関係があるように思われる。最初期の「傷ましい腕」のようなシュールレアリスム的な作品から、いかにも「岡本太郎」といった、平板な色使いのマンガみたいな作風への変化は、縄文的なものの発見に導かれているのだろう。割合と初期の重要な作品に、「重工業」(http://www.new-york-art.com/taro-Heavy-Industry.htm)と「森の掟」(http://www.new-york-art.com/taro-Jungle.htm)という二点の作品がある。(ぼくはこれらの作品を実際に観たことがないばかりか、手元に図版すらもなく、中学生くらいの頃に読んだ岡本太郎の「今日の芸術」に載っていた図版を思い出して書いているに過ぎない。この文章は、そんなあやふやな根拠にしか基づいていない。)この二作は、いわゆる「岡本太郎っぽい」作風の最初の頃の作品だ。ここでは、「重工業」という工場による生産力と、「森」の持つ、生物学的、あいは呪術的生産力とが、ほとんど同じような調子で描かれている。おそらく岡本太郎においては、縄文的な呪術的生産力は、工場的な生産力のイメージと深く結びついているのではないだろうか。そして、呪術的なものと結びついた重工業的生産力の増大が、そのまま共産主義的社会への希望と繋がっているように思われる。「明日の神話」というタイトルでも、「神話」という(遠い)過去が、そのまま明日(未来)へと結びついている。(岡本太郎の生産力が、例えばピカソのそれと比べて「力」としては引けを取らないかもしれないが、「質」として著しく平板であるように感じられるのは、この結びつきのあまりの楽天性にあるのではないだろうか。岡本太郎の平板さは、伝統を否定する社会主義リアリズムの平板さに似ているのではないか。縄文という遠い過去の肯定は、今ここに、すでに出来てしまっている制度としての伝統を否定するためのものだろう。)岡本太郎の「座ることを拒否する椅子」のような拒否(否定)もまた、実に楽観的な否定であるように思われる。そこには、生産力が豊かでさえあれば(豊穣な森の中のような生産性に満ちた世界であれば)、労働を拒否しても、べつに生活に困るわけではない、といった気楽さ(遊戯性)に基づくのではないか。「爆発」としての「芸術」は、そのような基盤の上に成り立つのではないか。
共産主義的な社会への希望とは、「労働」が限りなく「遊戯」に近づく社会への希望だろう。重工業的な技術の発展によって、人はより少ない労働で大きな(そして安定した)生産性が可能になり、それによって、人々は等しく豊かになり(格差が小さくなり)、生活は安定し、労働時間も短くなる。今から考えればあまりにも楽天的なそのような未来への希望(進歩への信頼)が、マルクスがどうしたという難しい話の以前に「気分」として共産主義への希望を支えていたのではないだろうか。(例えば、ベンヤミンが複製技術を賛美し、映画の製作を比喩として工場労働を語る時、あるいは宮沢賢治が農業に積極的に科学的な技術を導入して工業化しようとする時、同じような前向きな「楽天性=未来への希望」が貫かれているのではないか。勿論それは、ベンヤミン楽天的な人だったとか、そういうことを意味するのではない。「未来への楽天的な希望」はことの一面でしかなく、それはあくまで「現状の悲惨さ」によって裏打ちされていたのだろうから。バラ色の未来は、悲惨な現状によって要請されるのだ。)
おそらく日本では、八十年代まではこのような進歩への希望が生きていた。というか、一億総中流といわれたバブルこそが、この「希望」の実現なのではないかと、多くの人が錯覚していた。そしてそれは同時に進歩に行き止まりをも意味する。(例えば吉本隆明は当時、この好景気によってこそ「革命」が(半ば)実現されたのだ、ということを繰り返し語っていた。バブルとは、政治よりも生産力が勝利した時代であり、それ以降政治は困難となるだろう。この時期の生産力とは、工場における重工業的な生産力とはすでに別のものになっており、そのことが「共産主義」というイメージを困難にする。)だから、バブルの崩壊とは、たんなる浮かれた好景気が崩壊しただけではなく、それ以前からずっと続いていた、技術的な進歩への希望という近代的な価値観(気分)の崩壊でもあった。(勿論、それ以前でも「公害」などが問題化され、単純に生産性の向上が賛美されていたわけではない。しかしそれらは解決可能な「問題」とされ、全体として「前へ進む」という方向性はかわらない。それは、例えばエコロジーのようにはっきりと「後ろ向き」の思想に積極的に新しい技術が投入されるようになった現在とはかなり異なる。)生産力の増大は、確かに人を相対的に豊かにはするが、それはどうも全ての人に等しくというわけにはいかないみたいだし、資本主義の発展は基本的に、人の労働時間を短くするどころか生の全てを労働にしてしまうくらいの勢いらしい、と、人は嫌でも気付かざるを得なくなった。このような現在において、岡本太郎楽天的な生産力への手放しの肯定は、どこかリアルでないもののように感じられてしまうのは仕方が無い。(ただ、太陽の塔は、理屈抜きで「凄い」のだ。何が凄いのかよく分からないけど。ただでかいというだけかも知れないが。)
晩年の岡本太郎は、自ら進んで道化を演じるかのように、頻繁にテレビに出ていた。バラエティー番組などでは完全に「いっちゃってる人」として扱われていた。ぼくには、テレビタレントとしての岡本太郎のキャラが、あまり面白いものとは思われなかった。そこには、いかにも期待通りの「変人キャラ」を演じる人がいるだけにしかみえなかった。おそらく、他人が期待する「期待通りのキャラ(お約束)」を(余裕をもって)大らかに受け入れていたということなのだろうと思う。しかしそれは、岡本太郎的な「前衛の力」が、八十年代的なお笑いの「お約束」の空間のなかに吸い取られてしまったかのようにも感じられる。
●上の文章は、〈「新しさ」が最高の価値だった時代の黒澤明岡本太郎http://web.soshisha.com/archives/world/2007_0531.php(保坂和志)を参照しています。