●人はカネの話に弱く、カネの話は人の心を簡単に荒ませるように思う。陰惨な犯罪とか、通り魔的な殺人とか、そういう事件にも、確かにそれなりにショックは受けるし、時には犯罪者に共振したりもする。でも実は、人はそんなことでは簡単に心を荒ませたりはしないものだ。通り魔的な事件が連発したとしても、社会学のネタになったり、「近頃はすっかり物騒になって」という一言を、挨拶の時、顔をしかめて付け加えるようになったりはしても、そのことで、街を歩いている人のことごとくが自分を刺そうとしているんじゃないかという恐怖に襲われたりはしないし、犯罪者に共感したとしても、すぐにでも、誰でもいい誰かを刺しに行こうと思うわけではない。そこにはある一定の信頼や緩衝が働いている。でも、連日のように、世界的な景気の低迷とか、大量解雇、内定取り消しとかいうニュースが繰り返し流されていると、ほとんど自動的に、現在、比較的順調な人にさえ、これは人ごとではないぞ、と、いとも簡単に身を固く閉じさせることになるのではないか。明日は我が身という恐怖、仕事を失い、住む場所さえ失いかねないという恐怖は、経済というまったく得体の知れない、しかし誰もそこからは自由でいられず、「風が吹けば桶屋が儲かる」的に複雑に連鎖する流れによって、気味が悪くて手触りのあるリアリティを付与される。このような恐怖は、人を簡単に疑心暗鬼に陥れ、他者へと配慮する余裕を失って自己保身にはしらせる。あるいは人を攻撃的、排他的にする。というか、表面は平静にみえても、ちょっとした何かがあればすぐ、冷静さを失って一斉にそのような行動にはしってしまうような「心の準備」を待機させる(複数の企業による相次ぐ大量解雇という行動そのものが、そのあらわれであろう)。
今日、用事があって短い時間会った友人は、ここ二、三か月で、電車のなかの雰囲気が随分殺伐としてきた気がする、人に席を譲る人が極端に減った印象がある、と言っていた。この友人の「印象」そのものが、連日のニュースによって誘導されてしまっているという可能性もあるのだが、しかしそのことも含めて、「カネの話」は確実に人の心の奥底にまで浸透してしまっているということだと思う。(友人は、「でも、街を歩いている人の顔はまだ、そんなに殺伐とした感じではない、九十年代は、今よりもずっと街や人の表情が荒んでいた」と言っていた。)
現在の経済状況をどうにか出来る人なんておそらく世界じゅうのどこにもいないのだろうし、この嫌な感じは少なくとも三、四年くらいはつづくのだろう。だとしたら、ぼくに出来ることは、「カネの話なんかでは決して心を荒まされたりするもんか」と、厳しい状況のなかでも、平然と浮世離れして、ゆるーく、へらへら、ふらふらしていることくらいだと思う。深刻になり、身を引き締めるというのは、身を固くすることでもあって、こんな状況だからこそ、身を固くすることだけはしたくない。空気が読めなくて、状況の厳しさに鈍感な天然ボケってことで。
こんなことをわざわざ書いているという時点で、ぼくの心は既に恐怖に(空気に)汚染されてしまっているということでもある。大学を出てからずっと、まったく蓄えもなく、自転車操業をつづけているのだから、そのような恐怖が途切れたことは一度もなく(常に、来月の家賃が払えるだろうか、という心配をしている)、しかも、年々年齢は嵩んでゆくので、恐怖はさらに増してくるわけだけど、だからこそ、そんな恐怖に支配されてたまるか、という気持ちがある。(だからというわけではないが、今日は久しぶりに大量に本を買ってしまった。本当にお金ないんだけど。)