●何か新しい、あるいは便利な、ひとつの言葉や概念を知って、それによって何かを把握し得た、何かしらの見通しを得られたと感じるとき、それは同時に、知ることによって思考が停止され、固着されてしまうかもしれない危険な瞬間でもある。その見通しの良さ、その腑に落ちたという感覚、問題に片がついたという思いは、何を見落とすことによって成立しているのかが、常に意識される必要がある。概念や上手い言葉の便利さは、その言葉の上に思考を、(内実が問われないまま)固着-束縛してしまうという危険とうらはらなのだ。概念や理論を、その組成や内実が問われないまま、道具のように、あるいはレゴブロックのピースのように「使う」ことは、とても危険なことなのだ。このことに無感覚な人は、勉強すればするほど不自由になってゆく。
曰く言い難いことを、もって回って「曰く言い難い」と言うだけでは思考停止だけど、逆に、明確に言い切れることを、明確に言い切れる範囲でだけ言うこともまた、同様に思考停止でしかない。何かがすっきりと明確に言い切れるとき、それは、たんに思考が言葉の次元だけで自動的に作動している(滑ってる)からに過ぎないという場合が多い。Aという概念に対して自動的に反Aが措定され、その反Aから遡行的にAが再規定されるとき、もともとAという概念が立てられたときにもっていた組成の複雑さや割り切れ無さは、形式的操作のなかで消えてしまう。思考や分析とは本来、言語の形式的、自動的な展開のなかでいつの間にか消えてしまう、もともとAという概念が生まれたときにもっていた組成の複雑さや不透明さを再度そのなかに発見して吟味することであって、ものごとをわかりやすく、明確に図示することではないはず。分析や思考は、複雑に絡まった糸を解きほぐすということで、鋭利な刃物でそれをすぱっと斬ることではないはず。まして、人を言いくるめたり、言い負かしたりするための道具では、もっとないはず。
例えば、良い絵に対して、「良い絵だとしか言いようがない」と判断するときの根拠は、非常に複雑で簡単には言えない。それに対して、その根拠ってたんに「良い趣味」に過ぎないのではないか、みたいな、それを使うことでちょっと批評的っぽい気分になれる言い方があるけど、ここで「〜にすぎない」という否定的な言葉と共に使われる「良い趣味」とか「趣味」とかいう言葉は便利すぎて、ただそれを使いさえすれば何かが理解できたかのような、何かを言い得たかのような、何かを片付けたかのような錯覚に陥りやすい、人を思考停止においやるとても危険な言葉だと思う。そこには「趣味」という概念がもともともっている、それ自体としては簡単に肯定も否定もできない複雑な含みが縮減されてしまっている。絵を観る時に働く、非常に複雑でデリケートな認識の過程を、この便利な言葉や概念はするっと通過させてしまう。絵画のなかにある、あるいは「絵画を観る」ということのなかに常にある、歴史的な(地域的な、世代的な、階級的な)限定性と非歴史性(普遍性)との間の微妙な綱引きを、洗い流してしまうかのようだ。