●『東のエデン』の、一話から十一話まで一気にDVDで観た。アニメをこんなにまとめて観るのは久しぶり。一連の京都アニメーションの作品以降、真面目にアニメを観る気がまったくなくなってしまっていたのだけど、これは、面白かった。
とはいえ、さすが神山健治と思う一方で、このような作品がエンターテイメントとしてつくられざるを得ないことの限界のようなものも強く感じた。ここまで高度な視覚的表現の達成があり(最初の方で、女の子が乗るタクシーが停まる時に車体が軽く沈む描写を見て、おおっ、と思った)、詳細な世界設定や物語の作り込みがあるのに、それが、あのような類型的で単純すぎるとしか言いようのない設定のキャラクターたちによって演じられなければならず、物語が最終的に、ボーイ・ミーツ・ガールの形に落とし込まれなければならない(というか、それを物語の動力源にせざるを得ない)ということの齟齬というか、矛盾をどうしても感じてしまう(最後、王子様になるって…)。特に、絵に描いたように「けなげ」な、女の子のキャラはつまらないと思う。もうちょっと、なんか、ふくらませようがないのかなあ、と。
しかし、表面的には、絵に描いたような退屈なボーイ・ミーツ・ガールの話として納まる一方で、実はこの物語は「ジョニー(ちんこ)」の話であることが冒頭から明確に示されてもいる(主人公は最初、全裸にピストルをもってあらわれる、「ピストル」ってあまりにも露骨な…)。男性的な能動性の象徴としての勃起するペニスではなくて、たんに股間にぶらさがっているだけの、役に立たない(シガーカッターで切り取られたりさえする)、無数の「ジョニーたち」。勿論、ジョニーは直接描写されることはなく、もやもやっとした線で消されている。斜線で消されたジョニーたち(ジョニー=ゾンビでさえある)。ヒロインの女の子は、見ることの出来ない消されたジョニーを、観客に代わって目撃するためだけの役割で存在しているかのようだ(それくらいつまらないキャラだということだが、文字通り「お姫様」だから仕方ないのか?)。ほとんどの主要な男性キャラクターに全裸になることを強いるこの作品で、板津(ぱんつ)だけが、文字通りパンツをはいたままというのも面白い(隠されたジョニーと消されたジョニーの違い?)。
だからたぶん、この作品のヒロインをはじめとする女性キャラクターがつまらないのは、この話は男たち(ジョニーたち)の話で、本当は女性は基本的に必要ないからなのだろう(あと、一見、世代間の闘争の話のようで、実は若者たちだけの話になってしまってもいる、大人はずるい、しか言ってない感じ)。それは、もっと面白くなるはずのセレソン№11のエピソードがけっこうお座なりになってしまうところとか、もっと陰影をつけることが可能であるはずのセレソン№1が、意外に平板なキャラになってしまっていることなどにも、現れていると思う。
無数のジョニーたちのうごめきとポテンシャルを受けとめ、その責任を引き受けた上で、それらを一定方向に誘導する「王子様のジョニー(英雄)」が成立する(よって、他の大多数のジョニーたちとは違って、「王子様のジョニー」だけが姫=パートナーを得て終わる)という結末は、ここで終わってしまうと(冗談だとしても)けっこう微妙だと思うけど(というか、正直、えーっ、と思うけど)、劇場版としてまだつづきがあるらしいので、今後どういう展開があるのか気になる。
●この作品で面白いのは、作品の軸がなかなか見えてこないところで、最初、謎の男の出現ではじまったこの話は、日本に舞台がかわると、若者達の現実みたいな話になって、そのうち、設定が徐々に明らかになって、セレソンと呼ばれる人たちのゲームが軸になるのかと思いきや、これから起業しようとしている若者達のサークルと主人公の関係の話になり、そこに唐突に現れるセレソン№11とサークルとの(勘違いによる)交錯があって…、という感じで、エピソードがあっちいったりこっちにいったりでふらふらしていて、後から振り返って考えると決してバランスのよい物語の構築とは言えないのだけど、そのような、どっちに転がってゆくのか読めない展開のおかげで、主人公の消えた記憶という「謎」が大きく関わっている話であるのに、たんに、「謎」によって引っ張るような単調な展開を逃れている。
背景となる世界のきっちりとした構築、そこに込められる莫大な情報量、複雑に絡む伏線、等が実現されている一方で、物語の軸になる太い線がなく、よって、複雑な前振りが延々とつづく割にはクライマックスが弱く、作品が終わっても結論が出たという感じにはならなくて、カタルシスがあまりない、というのは、神山健治の作品(「攻殻機動隊」くらいしか知らないけど)の特徴であり、そこは、共感や情動に強く作用することが必要となれるエンターテイメント作品としては弱い点なのかもしれないけど、でも、それこそがこの作家の面白いところであり、その知性の証でもあるように思う。しかしここでは、その欠点をカバーするために、物語の中心をボーイ・ミーツ・ガールに置き、その男女のキャラクターもできる限り単純にするという戦略がとられているように思う。でもそれにはやはり、無理があると(繰り返しになるが)思った。