●展覧会の会場からの帰り、混雑した中央線で、すぐ近くに韓国語でお喋りしている若い女性の二人組がいた。何を喋っているのかはまったく分からないが、明らかに韓国語だと分かる音の連なりのなかに、時折、はっきりと「低血圧」と聞こえる音が混じる。特にその話(というか、意味がまったく分からないので声-音)に注意を向けているわけではないが、韓国語的な発音やリズムや流れのなかに「低血圧」という音が出てくるたびに、耳が勝手に反応して、注意がふっとそちらへ持って行かれる。これは、意味と不可分になった音としての言葉のもつ吸引力なのだろう。きっと、韓国語のなかに、日本語として「低血圧」と聞こえるような言葉があるのだろうと思っていた。
だが、そのうち、単語レベルではなく、もっと長いフレーズ、例えば「腕を後ろに組んで笑っている」とか、「女の子の長い髪を結んで」とかいう音が訛りもない滑らかな日本語の発音で、韓国語的な流れのなかに混じって聞こえるようになった。
えっ、と思い、今まで韓国語で喋っているのだと思い込んでいたけど、実は日本語だったのかも、と、改めて二人の声に注意を向けるのだが、やはり韓国語のようだった。でも、途中で唐突に、かなり長い日本語にしか聞こえないフレーズが頻繁に混じり、途切れて、また唐突に韓国語に戻る。その切り替わりのあまりの滑らかさと、二つの言語の混じり合わない不連続性。なんか、その感じがすごく気持ち悪くて、とても面白かった。
推測すると、おそらく、一方の人が、韓国語が堪能で少し日本語が出来る人で、もう一方の人が、日本語が堪能で少し韓国語が出来る人で、そういう二人が韓国語をベースにして、足りないところを日本語で補いつつ喋っているのだろうとは思うのだが、でも、片言の日本語と片言の英語の人が、英語に日本語混じりで喋っているという、よくある、簡単に想像可能な光景みたいなたどたどしさとか余裕の無さが全くなくて、どちらもとても滑らかに流れつつ、かつ、唐突に切り替わるので、まるで二か国語放送をリモコンで適当に切り替えして観ているみたいな感じで、すっごく変だった。だから、二人とも流暢なバイリンガルで、日本語のフレーズの部分は、日本語による表現物、例えばアニメとかゲームの台詞などの「引用」なのかもしれない(二人のやり取りのなかに挟まる擬音語や擬態語がゲームとかアニメっぽかった)。この変な感じは、ぼくが、日本語を母語にし、かつ、韓国語をまったく理解できないということによって起こるのだろう。
このような、不連続な連続性というか、異なる複数の体系が不連続なまま(媒介的な緩衝抜きで)並置されて、しかしそこには体系を越えた意味の連続性が成り立っている、みたいなことが、ぼくの絵の、線の仕事と色の仕事との間にも起こればいいなあ、と思う。