●図と地の問題というのは、ゲシュタルト心理学的に考えるのでもなく、モダニズム的フォーマリズムの問題として考えるのでもなく、人類学的に考えられるべきものなのだなあ、と。たとえばストラザーンが例に挙げるカントールの塵や、岩田慶治アニミズムのようなものとして。
メモ、「岩田慶治における「アニミズム」の構造」(Mノート)
http://animona.blog.jp/archives/742830.html
《岩田による「アニミズムの構造式」は、ごくシンプルなものだ。
それは、「<柄>と<地>の二元構造を一元的に生きることを通して、森羅万象がそれぞれに呼応しあう場所が開く」とまとめられる。》
《ここでは、「文化によって充たされた空間(=人の空間=存在の空間)」/「文化の及びもつかない空間=神の空間=不在の空間」の二元構造が、「祭りの日に祭りに参加する人びとにとってだけ」一元空間となると述べられている。
神と不在とが等置されていることからもわかる通り、神の「正体」などは問題にされない。ここで重要なのは、神がいるということ、不在があるということ、日常に非日常が対置されているという二元構造そのことなのである。
そして、それが祝祭体験において「一元化」される。二元構造を一元的に生きる、とは、祝祭的なエクスタシーのなかでのみ実現される、と説かれる。》
●日常と非日常という二つの図があるのではなく、文化=図と、文化の及ばないところ=地という構造がある。後者はブランクとしてある。神はブランクである。ブランクを否定ととると超越的になるけど、ブランクはたんなる穴だ。世界は穴だらけだ(カントールの塵のイメージ)。
二元論というと二つの図が対立する感じを思い浮かべるけど、そうじゃなくて、図と地という、根本的に次元のことなる二層がある。そしてこの二層を一元的に生きる。まさにセザンヌだ。