●ツイッタ―の岩田慶治 botから、引用。
《横死者の魂としての頭蓋骨も、今となっては怨讎と敵意の渦まく世界を離れて、やさしく私という旅人を見守っているに違いなかった。それは頭蓋骨というよりボルネオの山河のかたまりだった。その魂だった。眼窩の底にのぞいていたのは、闇ではなくて青空だった。》
《自然は非自然の上に浮かんでいる。世界は非世界の上に置かれている。人間は非人間のなかに生かされている。学問は非学問のなかにあって自らの観念の糸をつむいでいる。》
《地のなかから、突如として、柄が誕生する。柄が誕生したとき、地は、満足しておのれを隠そうとする。》
《他界は海のかなた、山の向こう側にある。森のなかにあり、地下にある。幾重にも重ねられたバラの花びらの内側にある。庭さきの草葉のかげにある。そこをじっと見つめて、五分、十分、いや、一時間、二時間すると、そこから死者たちの住む世界への展望がひらけてくるような気がする。》
●多くの人はなぜ「美」を軽く扱うのか。美は一種の予定調和であり、美(イリュージョン)に回収されない、崇高、外部、他者、政治、プロセス、残余、等々にこそリアルがあるというような論理のあり様こそが、もはや紋切り型なのではないか。たとえば、図と地という時(非世界として地を考える時)、地は別に図の外部ではない。図は地の一部であり、地を表現し、図と地によって、一つの図=美の形が生まれる。図によって地をくみ尽くすことはできないとしても、図によってこそ(図によってだけ)地が表現される(くみ尽くせない残った部分が地=リアルの存在を証明するのではなくて)。そのときの図=美の形こそがリアル(実在)であると言うべきではないか。一つの美の形こそが一つのリアルであり、また別の美の形は別のリアルである、のではないか。
(ブランクを、表現し尽くせない残余としてではなく、図によって表現される、図には描かれていないもの、と考えることができるのではないか。表現され得ないものがリアルなのではなく、表現されているもののなかにこそリアル---の一部---があり、ブランクがある、と。美はもともと底が抜けている。だけど、抜けた底は美=図によってはじめてあらわになる。)
●地からあらわれた図(美)は、あらわれた途端、地を構成する要素の一つにもなる。図の出現が地を動かす。地もまた、常に動いていて、地が動いているからこそ、そこからまた新しい図が生じる。図と地の中間にある(図と地のどちらにも足をかけている)、セザンヌのタッチ。
●地にはスケール感がない。海のかなたにある他界と、バラの花びらの内側にある他界と、どちらが大きいということはない。セザンヌの、タッチとタッチの間にあるブランクにも大きさがない。大きさがないものから、大きさのある林檎や花瓶やサントヴィクトワール山が出現する。
おそらく、優れた作品にはスケール感がない、あるいは、「スケール感の無さ」がある。小さくてもミニチュアではなく、大きくても壮大ではない。