2021-06-18

●すっかり「大豆田とわ子」に夢中になって放置してしまっていた『ゴジラ S.P』を最終話まで一気に観た。こちらもすばらしく面白かった。

(そもそもゴジラの存在は物理的に不可能→仮にゴジラが実在できるとすればそれはこの宇宙の物理法則の危機→ゴジラ特異点→宇宙が破局する局面でゴジラ特異点が現われる、という発想なのか?)

「大豆田とわ子」が並行世界的な話だとしたら、『ゴジラ S.P』は決定論的な宇宙のなかでどうやって決定論的終末を回避するのかという話だった、と思う。「未来で確定している破局をどう回避するのか」。横---並行世界---には逃げられないので、ひたすら縦---時間軸上---に、巡行し逆行する情報のやりとりを通じてそれを行うしかないという話、だと思う。時間軸は1つしかないので、やりとりされる情報は1つの流れのなかに何層も折りたたまれることになる。

ジェットジャガーを最強にするプロトコルが五十年前から仕込まれていて、ペロ2とジェットジャガーが同根の存在で、その五十年を何度も行き来しながら自分を更新しつづけて、ゴジラを倒すことが出来るまでになって、今ここにいる、ということだと思う。ただ、そのようなロジックよりも、時間の巡行と逆行が繰り返されて折り重なった状態を、時間を巡行方向にしか経験できない我々が、自分の経験できる能力を超えた経験として無理矢理に経験させられちゃっている、という感じが面白いのだと思う。

(「シンギュラ・ポイント」というタイトルは、一方で、特異点---フェイズ13オーソゴナル・ダイアゴナライザー---で特異点---ゴジラ・紅塵---を制すことで破局を回避するという「あらゆる願いを叶えるランプにその消滅を願う」という感じのロジック---ブラックホール的な意味での特異点---と、もう一方で、AIがひたすら学習をつづけてある閾を越えるという、カーツワイル的な「シンギュラリティ」という意味もかかっているのだろう。)

メタフィジカルとフィジカル。情報技術と重工業。AIには身体が必要で、だからロボティクスは重要なのだが、その部分を町工場の職人気質のおじいさんが担っている。公の研究所とか新規のITベンチャーとかが舞台じゃないところがいい。情報技術は若手が担当しているのだけど、おじいさんと若手とが共働しているというより、各々が好き勝手にやっている感じもよい。おじいさんは勝手に自分の流儀で作りたいロボットをつくっているし、若手は若手で自分の興味を追求し、おじいさんが壊したロボットを修理する体で勝手にアップデートさせたり、AIを仕込んだりする。協力するというより、好き勝手やっている結果として協同になっている感じ。

あと、頭と肉という意味でもメタフィジカルとフィジカル。頭と肉との噛み合わなさということを強く感じた。宇宙の破局という壮大なスケールの問題と格闘している偉大な頭脳(科学者)もまた、逃げ惑う群衆の一人であり、逃げ遅れて、ザコみたいな怪獣にちょっと突っつかれたくらいであっさり死んでしまう(リー博士)。この、圧倒的に釣り合っていない感じがすごい。理論と実験を積み上げて「宇宙」と対峙していても、今ここにある肉はそんなこととは関係ない些末な偶発性によって消滅する。そして、この理不尽さのなかに、宇宙を感じたりもする。

●「大豆田とわ子」の名セリフにはあまり反応しないのだが、「ゴジラ」のキラーフレーズはビンビンくるものが多々あった。

「高次元のねじれを三次元で結んでおく」。「答えは、《はじめから分かっていた》だ」。「まだ起っていないことをはじめから無かったことにする」。「何かを忘れていることを思い出した」。「情報は届いていたのに何が情報かを示す情報がない」。「成長した神が宇宙より大きくなったから宇宙をやり直すしかない」。「過去方向に計算を延ばす」。「過去の大部分が未来によって構成されています」。「コードはわたし自身です」。

そして、「過去を変えられるのなら現在は既に変わった後の未来、わたしはすべてを知っていたのに意味はまったく分からなかった」。これはいわば、リーディングシュタイナーというズルを使わないで成立する単線的な「シュタインズゲート」とも言えるのかも。

(さらに「ここから物語ははじまる」と。メカゴジラ碇ゲンドウのような葦原が…)