2024/01/07

⚫︎恐怖が、暴力や差別と不可分であり、恐怖を表現することそれ自体が時に暴力や差別の発動そのものであるように、笑いもまた、その根本として、あからさまに、生々しく、暴力的であり、差別的であり、権力追従的である。これは最近の傾向などではなく、おそらく人類が始まったときからずっとそうだったはずだ。だからこそ、そこで何をやり、何をやらないのかが重要でセンシティブな問題となり、故に毒と隣り合わせの「笑い」はクリティカルでもあり得る。笑いそのものが、笑うことへの批評である場合がある。笑うということそのものに濃度の高い危険が含まれていて、だから、それを「評価する」とという行為にとどまらず、何について笑うのかという、日常的にただ「笑う」という行為にすら、繊細な感覚や事後的反省、分析が必要であると思う。あんなものをみて大爆笑していた以前の自分がまったく信じられないということは、ままある。

(あんなものはじめから全然面白いと思わなかったと「歴史修正」する人も、ままいる。)

だからぼくにはいわゆる「お笑い」は重すぎて、観るのが億劫だ。