⚫︎お知らせ。8月27日(火)に、いぬのせなか座の山本浩貴さんとDr. Holiday Laboratoryの山本伊等さんによる「『セザンヌの犬』では何が起こっているのか ? 」というイベントが開かれます。お二人が『セザンヌの犬』を深掘りしてくれるそうで、とてもありがたいです。ぼくは、おそらく会場にはいますが、登壇はしない予定です。会場は、中野にある「水性」というスペースです。
⚫︎なんとなく手にとって、大江健三郎「死に先だつ苦痛について」(『河馬に噛まれる』所収)を再読。
『河馬に噛まれる』という連作は連合赤軍をモチーフにしている。大江は、憲法や核兵器、沖縄の問題について積極的に発言し、行動もしたが、それはあくまで戦後民主主義を基盤とした批判的な知識人としての振る舞いで、「革命」のような志向を持つものではないし、彼に革命に関する理論があるわけだもない。だから大江の連合赤軍への興味は思想的なところにあるのではない。また、急進化する運動が市民から乖離した末、内ゲバの連鎖という泥沼に陥ってしまった、その道行への反省的な再検討がなされるのでもない。
ここで大江の主な関心は、限定的な生しか持たない人間が、自分の生のスケールを超えた運動(革命運動にしろ、他の何にしろ)のなかで生きるとはどのようなことであるのかを問うているように思われる。つまり、自分が生きているうちに達成されるとは思えない「革命」のために、自分自身の生の核心部分を捧げるというのは、どういうことなのか、ということだ。自分は革命のために生を捧げるが、自分が生きているうちにはそれはなされない。それは、自分の生の「全体」は、革命運動の「一部」であるという認識だろう。そのとき、自分の生が「自分の生」として閉じられなくなる。合理的利己主義として考えると、このような生は不可解なものでしかないだろう。
これは、「自分の死後にも世界はある」という問題の、とても具体的な一つのバージョンだろう。ここには二つの問題があると思われる。一つは、革命という目標が自分の生のうちに達成されないのならば、限定された自分の生の目的(というか、満足感や手応え、あるいは「自分の役割」)を、どこに、どのようなものとして設定すれば良いのか。もう一つは、自分の存在が、自分の死後の世界(の革命)にも「役立つ」ものであるためには、どうすればいいのか。自分が、「自分の死後の世界」に役立つため、役立つように「死ぬ」にはどうすれば良いのか(これは、特攻隊的な死の美学化とはまったく異なる問いだ)。
この二つの問いは、どのみち、道半ば、志半ばで死んでいくのならば、そういう生として生きる自分は、どのように行動すべきなのか(どのように行動することなら「可能」なのか)、あるいは、どのように「満足する」べきなのか(どのように「満足する」ことなら「可能」なのか)という問題に合流する。
『河馬に噛まれる』という連作は、作家が50歳前後の時期に書かれた。そしてこの連作全体が「自分がいつかは死ぬ」という感覚に強く浸されている。自分が死ぬという感覚がリアルに意識されることで、上記のような問題が浮上していると思う。
(たとえばこの小説で、タケチャンの特異な生は、タケチャンの結社に集まった若者たちに確実に受け継がれているが、それは決して、タケチャンがそうしようとしたからではなし、タケチャンの意図どおりに継がれるのではない。というか、タケチャンは二重、三重に「失敗して」死ぬのだが、その失敗がなお、何かであり得るのかと問われているように思う。「失敗した生」については、タケチャン・男性だけではなく、タカチャン・女性についての短編でも問題にされている。)
そして、このような問いは、「信仰」をモチーフとした90年代の長編(『燃え上がる緑の木』『宙返り』)に発展していくのだろう。しかし、ぼくはこの二つの長編を読んでいない(随分前から本はあるが)。読まなきゃいけないと思いつつ、どうしても敬遠してしまう。なんかそっちは違うんじゃないか、という気がどうしてもしてしまう。そもそも読んでみなければ「違う」かどうか分からないが。