⚫︎最近、「解説」という言葉に強く引っかかる。YouTubeなどで、ネットで「かしこいキャラ」とされているような人たちが、しばしば「~について解説します」という動画をあげている。それを見るたびに(そのような動画を見ることはほとんどないが、そのようなタイトルを見るたびに)、お前は、なんの権利があってそれについて「解説」しているのか、と思ってしまう。「解説」という言葉の持っている権威性に無自覚というか、いやむしろ、その権威性をわかっていて悪い利用の仕方をしていると感じる。
今、テレビをまったく観ないし、野球中継を観ることもないが、昔の野球中継には「解説者」という人がいた。解説者は、元プロ野球選手で、しかも一定以上の実績を残した人がなる。あるいは「ニュース解説」というのもある。そこでは、ニュースで取り扱われる事象について、その周辺事情について、研究しているような研究者か、あるいはそれについて突っ込んだ取材を長く続けているような記者が「解説者」となる。また、本の末尾に「訳者解説」がついていることがあるが、それを書いているのは、少なくともその本を一冊丸ごと翻訳する程度には深く読み込んでいる人だ。つまり、「解説者」は、ある特定の分野にかんして普通の人よりも深く、広い知識を持っていると社会的に認定されている人がなる。
要するに「解説」とは、上から目線でなされる。知らないお前に、知っているオレ様が教えてやるよ、という態度であり、解説者の言説には一定以上の真実相当性があるという「(社会的な)お墨付き」がくっついている。
だから「解説者」は、ある特定の分野のみを解説する。野球解説者が選挙の結果について解説することはできないし、ロシアの歴史の専門家が地下アイドルについて解説することはできない。権威やお墨付きは、非常に厳しい制限(限定性)があってこそ、正当化される。
しかし、「かしこいキャラ」の人たちは、何でも、どんな分野、どんな事象についても「解説」してしまう。それは本来、「感想」とか「考察」とか呼ばれるべきものだ。「感想」や「考察」には、何の権威性もお墨付きもない。それは上から目線のものではなく、話者にも何の特権性もなく、事象そのものに対しても、聴衆に対しても、同じ高さの目線からなされる言説だ。だから、話者が誰であるかということではなく(話者の権威性とは関係なく)、その「感想」そのものが興味深いものであるか、「考察」そのものが鋭いものであるかどうか、が、問われることになる。だからこそ、「~について語る権利」などに縛られることなく、誰でもが、何について、どんな風に語ってもいいことになる。「感想」や「考察」はいわば、(原理的には)平等で水平的で民主的な言説だ。
逆に、「解説」と言ってしまった途端に、「話者の権威性」が問題になる。その権威性を支えるのはつまり「かしこいキャラ」である⚫︎⚫︎さんが言っていることだからきっと正しいのだろう、という個への信頼=信仰ということになる(「権威」の根拠が「社会」への信頼性ではなく「個・キャラ」への信頼性になってしまう)。「解説」という言葉の使用からは、話者を権威化する(話者を聴衆よりも上に置く)という逆流効果が生まれてしまう。あるいは、「解説」という語は、聴衆を信者化する、と言ってもいいと思う。「~について解説します」というタイトルで動画をあげる人は、そのような効果を狙っていて、悪質な語の使用であるように、ぼくには感じられる。
(「解説」を行う権利は「社会的に認められた権威」を持つ者にだけが持つ。この「社会的に認められた権威」が、どこまで信頼するに足りるものであるのかは、大変に大変に疑わしいと思っているが、だとしても、少なくともそれは公共的・共同的なものではある。しかし、教祖-信者関係で成り立つ「権威」を支えるのは信者の教祖への信仰であり、その「解説」は教祖の主観と恣意と思惑に基づくものでしかない。)
(信者にとって「教祖の権威」は、それを疑うことが許されないものとしてある。しかし一方、「社会的な権威」は、なんか疑わしいんじゃないかと思いつつ、吟味しつつ、とりあえずは受け入れておく、という半信半疑的な距離を確保することもできる。ゆえに「社会的な権威」の方がまだマシなのだ。)
⚫︎そこで、では「批評」はどうなのか、という話になる。「批評」は、「解説」の側にあるのか、「感想」や「考察」の側にあるのか。批評は、ある事象や作品に対してメタ的な視線に立つことも多い。しかしそれは必ずしも「上から目線」ということではない。メタとは、たんに「階層が一つ上」と言うことでしかない。階層の違いは、価値や権威とは関係ない。「人間」というカテゴリーは「ソクラテス」という語に対して階層が一つ上だが、だからといって、「人間」について語る方が「ソクラテス」について語るよりも権威主義的で上から目線であるとは言えない。ただ、視点の位置が違っているだけだ。
いっけん、「批評」という語の語感は「解説」という語の語感より、権威的に感じられるかもしれない。しかし本来ならば「批評」は非アカデミズム的な言説であり、権威やお墨付きとは関係ない、という宣言として「批評」という語が用いられる。批評は、何の権威もお墨付きもないところから始められる(本来ならば…)。
(「解説」という語の使用の悪質性は、いっけん「批評」などよりもずっとソフトな語感を持っている、というところにもあると思う。)