死者の目/完全過去/表現の現在(『サザエさん』と古井由吉)

●日曜、午後6時半と言えば『サザエさん』。しかし『サザエさん』なんて観たのは凄く久しぶりだ。久しぶりに観た『サザエさん』ではあるが、あいも変わらずこの季節の『サザエさん』は「マツタケネタ」をやっている。1年経てばまた同じ季節がやってくるように、『サザエさん』は同じネタを何度も何度も、何十年も使いまわす。人は齢をとるし、社会は変化するけど、秋はまたやってくるし、『サザエさん』はほとんど変わらない。考えてみれば、ぼくが『8時だヨ、全員集合』を観ていた時期も、『オレたち、ひょうきん族』を観ていた時期も、あるいは『東京ラブストーリー』なんかを観ていた時期でも、同じ週の日曜には『サザエさん』は放送されていたのだった。『サザエさん』の前にやっている『ちびまる子ちゃん』の世界が永遠に変わらないのは、それが昭和30年代後半という明確な時代設定によっているのだが、『サザエさん』の世界は基本的にいつも「現代」であり、それが「現代」であることが不自然でないように微妙な修正を常に加えられつづけながらも、実はほとんど何も変わってはいない。今年の「秋」は歴史の最先端にあり、以前の「秋」とは違う、初めて訪れる「秋」であるはずなのだが、それが「秋」と名付けられることによって、過去にあった無数の「秋」と繋がっている、無数の「秋」の無数回目の反復としての「秋」でもある。今週の『サザエさん』は、再放送ではなくて新作であり、今までのどの『サザエさん』とも違うものであるのだが、しかし同時に過去に放送された無数の『サザエさん』の無数回目の反復でもあるのだ。《今週の『サザエさん』》は、全くの新作であると同時に、そうではない。ぼくが生きている「現在」も、今まさに生れつつある全く新しい時間であるのと同時に、うごめきひしめいている無数の過去、無数の幽霊たちが、ひっきりなしにうじゃうじゃと回帰しつづけてくる時間でもあるのだ。

古井由吉は、『ルプレザンタシオン』での松浦寿輝との対談で次のように言っている。《つまり小説に厚みを与えるのに一番いいのはお天気のことです。だけど、お天気のことを本当に現在今のこととしてとらえようとしたら表現は果てしなくなるわけですよね。雨と一言でも言えないし、晴れと一言でも言えない。ましてや小春日和とか、それから寒の入りの珍しくあったかい日なんて。これは全部、実は完全過去なんですよ。大勢の人間たちの見てきた過去なんです。これを私「生前の目」って言うんですけどね(笑)。生きながら生前。この完全過去、死者たちの民主主義ですか....無数の死者たちの生前の目、あるいは無数の死者のことを思うときに生者も分かち持つ生前の目、これが小説の現在だと思うんです。》

「小春日和」という言葉が、ある日の陽気を現す言葉として成立するのは、「寒い時期にふと訪れる春のように暖かい陽気の日」というのが何度も過去に反復して現れていて、それを体験した無数の人々=死者によってその状態が語られ、語り継がれ、その言葉を今発している人物も、それを受け止める人物も、その状態、その感覚を過去に何度か体験しているという条件のもとでなのだ。言葉を使うということは、それを語っていた無数の過去の人々=死者の感覚や体験と接続され、その感覚が回帰してくると言うことだし、言葉に限らずあらゆる表現というものがそういうものであるはずなのだ。だから「表現の現在」とは既に無数の死者が複雑に折り込まれた時間であり、決してたんに「今ここ」ではありえないのだ。《それできちんと振る舞えるかどうかの問題なんです。振る舞えれば苦労はないんです。》

勿論、表現は過去にだけ関わるものではない。まさに今、現在「小春日和」のただなかにいて生きている身体がなければ、あるいはその人物の言葉をどこかで今、違和感とともに受けとめている別の人物がいなければ、そもそもそのような「表現」に意味はないだろう。古井氏も、決して完全過去では小説は書けない、と言っている。《現在を完全過去の精神でとらえきれないときに現在とは何かという問いが露呈してしまうわけです。そのときに言語は解体せざるを得ないんです。》《自分の文章がもっとも不潔だと思われるのは、それが完全過去じゃないということなんですよ。でも、ここで清潔であろうとは思いません。》(いわば『サザエさん』とは、完全過去のなかだけで成立しているような「作品」なのだ。)

●「表現する」というのは、既にそれだけで、無数の過去に生きた死者たちと接続されているということであり、彼らとともに、彼らのただなかにいて「きちんと振る舞えるかどうかの問題」に曝されているという訳なのだ。しかし、それは同時に、彼らから身を引き剥がそうとする行為、彼らを裏切ろうとする行為でもある。そして、ほとんどそこにだけわずかに、「現在」とは何かという問いがあり、その「現在」に曝されている「私」という現象が浮上しくると言えるのだろう。