02/03/08

●画家の今井俊満氏が亡くなられた。アンフォルメルの画家として世界的に活躍したかと思えば、いきなり「花鳥風月シリーズ」で日本に回帰し、しかしそんな日本回帰など悪い冗談でしかないとでも言うように「広島」や「南京」を題材にした作品を発表して物議をかもす。ガンで余命いくばくもないと宣言され、「サヨナラ」と題する展覧会やイベントでこの世に分かれを告げたにも関わらず、その後も力強く生きのびて制作をつづけ、最後だったはずの展覧会の後に何度か新作を発表するという芸当をやってのけることで、「~の終り」などという言説のいいかげんさを自ら暴き立てたりもする。その存在自体が大きくて豪快な芸術家としか言い様のないこの画家の作品を、実はぼくはあまり好きではないし、それほど高くは評価できないと思っていた。しかしその最晩年の作品、つまり「サヨナラ」以降の作品には、何か並々ならぬ「凄味」が漲っていて、衝撃とも言っていいような驚きを感じた。それは、ほとんど死と隣り合わせとなった老いた画家が、「広島」や「南京」といった題材から、現代的な風俗のクリシェともいえる「コギャル」の奔放な性へと題材を変えたからでも、それによって正に「シブヤは今戦争状態みたいだ」とでも言うべき表現が成立しているからでもなくて、そのような「題材」などどうでもいいと思われるような地点での、生でもなければ死でもないその境界線上に漂うような視線によって、1人の人間が一つの身体を持つというような有機的な統合がなしくずしになってしまい、バラバラに解体された身体が、バラバラなまま宙に漂い、それらが雑多に接合されたり離反したりを繰り返しているような状態が(それは勿論「融合」などという整合的なイメージとはほど遠く、殺伐とした雑多さのなかで「肉」がウジャウジャと蠢いているような状態なのだが)、実現されていたからだった。(このことについては「批評空間」のウェブ・クリティークに書いているので「ここ」を参照して頂きたい。)このような驚くべき出来事をふいに実現させてしまう「芸術」というもの、そして、その出来事を自らの内に呼び込んでしまう大きな器をもった「芸術家」という存在に対する、強い驚きと敬意といったものを、改めて思い知らされたのだった。不謹慎な言い方になってしまうかもしれないが、『The para para dancing』のような凄い作品が、「サヨナラ」以降の、半分死んでいるとも言えるかもしれない今井氏によって産み出されたという出来事の大きさにくらべれば、個人としての今井俊満が「死んだ」という出来事は、予想された当然の出来事の自然な進行でしかないと言えるかもしれない。