●高橋洋『ソドムの市』をDVDで。『血を吸う宇宙』(07/26の日記参照)が意外にも面白かったので観てみた。好きか嫌いかは別として、この映画にははっきりとある実質を感じさせる密度があり、惹き込まれてしまった。この映画の密度は、作家である高橋洋が、徹底して「現実(現在)」を無視し、どこまでも自らの外傷(記憶)にこだわり、外傷に対して忠実であることによってもたらされているように感じられる。強迫的に何度も回帰し、反復する外傷的なイメージに、高橋氏は本気で恐怖を感じ、そして同時に強く惹かれ、固着しているように思える。だが、その恐怖とは、イメージそのものに対する恐怖なのか、それとも、イメージがほとんど無時間的な領域に存在し、現実的な秩序を全く無視して現れ、果てしなく反復されてしまうことこそが恐怖なのだろうか。とにかくこの映画の強さは、中途半端に「現実(他者と共有される地平としての「現在」)」などというものに対する配慮を行っていないというところにあり、何でもかんでも関連づけたがる人がこの映画から容易に連想するであろう、オウムによるサリン事件とも、9・11とも何の関係もないようにみえる。(オウム以降、とか、9・11以降とか、理想の時代が終わってなんとかかんとか、とか、すぐそうやって歴史的な局面を捏造しようとする社会(学)派の人たちとははじめから無縁の作品なのだと思う。)とにかくこの映画は「現実(現在)」と手を切ることによって成立しており、この映画が支離滅裂に見えるとしたら、それはこの映画があくまで(高橋洋という「症例」における)「イメージの回帰・反復」の原理に従って作られているからであって、突っ込みどころを作って「笑い」を誘う(笑い=突っ込みを予め期待している)ためではない。(「趣味としての悪趣味」の地平が前提とされているわけではない。)イメージの回帰・反復の原理とは、それがあらわれる(リニアな時間上という)現実の側からみれば予測し難く、理不尽なものとしてしか捉えられない。この、外傷的イメージの反復の理不尽さこそが、物語の内部では、時間を超え世代を超え(固有名を超え)てあらわれる「血の呪い」としてあるのだ。理不尽で混沌とした、イメージの回帰・反復の原理に従ってつくられた作品が、たんに訳の分からない混沌へと崩れてしまうのを逃れているのは(一つの「症例」としての秩序=強度をもつ、という以外に)、その、反復されるイメージの一つ一つが、きわめて通俗的でありきたりであること(だからそれは分かりやすく、共有しやすい)によるだろう。付け加えれば、その通俗性はあえて(受けを狙うために)選択されたものではなく、高橋氏はあくまでも本気で、そのような通俗的なイメージにこそ惹かれ(と言うより「取り憑かれ」)ているのだと思う。(例えば、「ソドムの市」があきらかに「座頭市」の反復であったとしても、それは映画的な引用などとは全く別の次元の事柄なのだ。)なにしろ、その「本気」であることによる充実度によって、この作品は支えられているのだから。(その、本気であることの充実度=熱さは、この映画がほとんど自主映画のような「手作り」のノリ=低予算でつくられていることで、一層強化されている。)おそらく高橋氏は、花嫁の真っ白な衣装が赤い血で汚れる場面、や、マッドサイエンティストや黒魔術師などの黒幕の陰謀によって世界が動かされているという妄想、や、知らないうちに誰かに操られていて、ある合図によってスイッチが入ると、自分の意思とは関係なく大勢が互いを殺し合い、大殺戮が起こってしまうのではないかという妄想とその場面、や、それによって世界が壊滅する場面、や、互いに対立する立場にあり、しかし遠い因果で結ばれた二人の少女が、ものがなしい歌によって、ふと心を通わせる場面、や、棺桶のなかの死体がふいに立ち上がる場面、など(これらのイメージの多くが、おそらくは映画体験によってもたらされたことは事実であろうが、それらは既に映画を超えたものとしてある)に、本当に取り憑かれていて、それらが本当に恐ろしくて仕方が無いと同時に、それらの場面のふいの到来を待ち望んでおり、それらを見たくて仕方がないのではないか。そして、そのようなイメージの回帰・反復こそが、「現実」よりもずっとリアルであるような感触のなかで生きているのではないだろうか。