●目が、今、現に見てしまっている風景の強さ。確かに、人は目の前にあるものから、巧妙に自分が見たいものだけを選別して見てしまうという傾向があるし、見ていたつもりが実はまったく見えていなかったと分かることもしばしばあるが、それにしたって、「見えているもの」は、「私の想像や欲望」よりも強く、或いは、「知覚」は「記憶」よりも強く現れ、「私」を束縛する。例えば、私が今見ている「赤」は、その「赤」から受ける感覚的なものは、私の目の前に実際に赤いものがあることによってもたらされ、その「赤」がもたらす強さや精度は、目の前に「赤」がない時にイメージするそれよりもずっと強くて正確だろう。(あるいは、その「赤」があることによって、私は強制的に「赤」という感覚を生じさせられる。)時には、私が今見ている(私に、今、見えてしまっている)風景の方が、私が私であることよりもずっと強く、私の存在を規定し私を縛り付ける。あるいは、ある人(他人)の存在は、その人が何を考え、何を感じているかということを感じ、知るよりも、私の目にその人の「姿」が今、現に見えている(或いは、触ることが出来る、体温が感られる)ということによって、その確かさ(そこに確かに生きた人がいて、それが自分とは違う人であること)が確信出来る。勿論、知覚は、私の外側の世界の正確な反映ではなく、感覚器官が受容した外的なデータを、「私の頭」が「加工」し「構成」した結果として出来たもの(だから私が知ることが出来るのは、既に加工されたもの=図としての「感覚」であり、その原データや「加工のされ方やプロセス=地」を知ることは出来ない)なのだが、だからこそ、知覚されたものとしての「感覚(図)」のなかには、「知覚する」という行為の全過程が生じる場である私の身体(地)の存在の感触が含まれ、その身体の諸システムが(知覚するという行為によって)駆動する際に発せられた「熱」の感触も含まれているはずで、そして、その「熱」は私の内的な過程によって生じたものではなく、風景という外的な刺激によって生じたもので、だから、私が今、風景を見ている(私の身体が、風景という視覚像=図を加工し構成している)時、私の身体の存在は、その(外的なものである)風景の視覚像がたちあがる場として私に実感されていると言えるのではないか。その時、風景=私では決してないが、風景の存在によって私の身体が(私にとって)結像させられているという意味で、私(という現象)は(私とは切り離された、私の外側の出来事である)「風景」によって形作られ、加工されている、と言えるのではないだうか。つまり、(風景を見ている時の)私はほとんど「風景」によって鋳造され、型取りされ、色づけられてしまっているにも関わらず、決して風景=私ではない。「私」は風景から僅かに身を引き離す(あるいは、引き剥がされる)ような感触として、自らの存在を辛うじて確認する、のではないか。