●タランティーノの『ジャッキー・ブラウン』をDVDで。タランティーノの映画では何が好きかと言われれば圧倒的にこの『ジャッキー・ブラウン』で、確かに映画としての欠点を言い立てればいくらでも言えるかも知れないけど、とにかく主人公のジャッキー・ブラウンのキャラクターが好きなのだ。(というか、パム・グリアに見とれているだけで充分な映画なのだ。)冒頭で、いかにも下品な(あまりにも七十年代的な)青い色をしたスチュワーデスの制服姿を観た瞬間に、これは絶対に面白いに決まっていると思ってしまう。(途中で着替えられる、黒いスーツも格好良過ぎる。)
勿論、タランティーノのいつものことで、つかみの格好良さはまさに最初だけで、物語が動きはじめたとたんに、映画はかったるいものになる。特にこの映画では、別に派手なアクションがあるわけでも、奇抜なアイデアがあるわけでも、複雑な語りの構造が仕掛けられているわけでもない。ありふれたお話を語っているだけなのに、上映時間が二時間半以上もあって、誰がどう観ても長過ぎる。長くなってしまう理由は明らかにタランティーノの語りの能力の欠如で、例えば、五十万ドルをショッピングモールの試着室で受け渡すシーンが、三人の視点から、三度反復して示されるのだけど、このシーンには、何も三度も反復しなければならないような複雑な構造やアイデアがあるわけではない。この程度の状況の推移は、時系列に沿った単線的な流れの上でサクサクと表現されるべきで、それが三度も繰り返されるのは、とう考えても冗長であろう。あるいは、この映画には、特に見せ場となるようなシーンもなければ、アクションもなく、あくまで話の推移をテンポよく見せるような題材なのに、それをスムースにダレることなく示すことが出来ないから、余計な小ネタや会話(台詞)の面白さで間を持たせるしかなく、それで一層時間が長くなる。
でも逆に、この映画の良さは、タランティーノが、こけおどしの派手なシーンをみせたり、意味なく構造を複雑にしたりすることなく、地味な話を、あくまで地味に語ろうとしているところにあるように思われる。冗長であり、傑作とは言い難いこの映画の、しかしその愚直な語りによる魅力は、他のタランティーノの映画にはあまりみられないもののように思う。おそらくタランティーノには、自分がお話を語ろうとするとかったるくなってしまうという自覚があり、『デスプルーフ』などでは、開き直ってそれをネタとして使って、意図的に停滞する時間そのもの(+アクション)で見せようとしていると思う。でもそれは、あくまでその映画一本でのみ成り立つネタであって、その面白さはネタとして上手くいっているという種類のものであろう。例えば、ぼくには『デスプルーフ』のカート・ラッセルよりも、『ジャッキー・ブラウン』のロバート・デ・ニーロの方がずっと魅力的にみえる。タランティーノは、タランティーノなりのやり方でロバート・デ・ニーロの演じる人物を丁寧に描写しようとしており、カート・ラッセルがカート・ラッセルであることに寄りかかっている『デスプルーフ』よりも、そういう方向の方がタランティーノの資質に合っているのではないかと思う。(タランティーノにとって必要なのは、カート・ラッセルのような俳優ではなく、デ・ニーロのような俳優なのではないか。)その違いは、『ジャッキー・ブラウン』のパム・グリアと、『デスプルーフ』の、後半の四人の女の子とのキャラクターの魅力の違いに、もっと大きな形で現れている。『デスプルーフ』の女の子が、割合上手くいっているとはいえ、あくまでも類型的にキャラとして分けられた四人でしかないので、カート・ラッセルをやっつけたとしても、女の子たちが悪者をやっつけた爽快さ以上のものにはならない。例えば、もし、スタントをやっているガタイのでかい女の子のキャラクターが、もう少しちゃんと生かされていれば(たんに「お喋り」だけでないそれ以上の描写がなされていれば)、随分違ったのではないかと感じる。
『ジャッキー・ブラウン』のパム・グリアは、ファム・ファタルでもビッチでも犯罪のプロでもなく、たんに44歳の追いつめられたありふれた女性でしかない。(パム・グリアという女優がブラックスプロイテーション映画でどのような位置にいたのかとかいう知識はぼくにはない。)彼女は、自分の身を守るために、自身の人生を見失わないために、なんとか窮地を切り抜けようとする、あぶなっかしい犯罪のアマチュアに過ぎない。結果として全ての人たちをだしぬき、まんまと五十万ドルを手にしたとしても、たまたま「窮鼠猫を噛む」が上手くいっただけであろう。そしてそのような姿をこそ、タランティーノは丁寧に追ってゆくのだ。表面的には、すべてを見通してクールに乗り切る颯爽とした美人であるようにみえつつ、クローズアップではやはり44歳の中年女性であり、サミュエル・L・ジャクソンを事務所で待ち伏せるシーンで、銃を撃つ仕草を繰り返す姿などは、いかにも様になっていなくて、彼女がアマチュアでしかないことが示されている。(ここでパム・グリアが格好良く銃を撃ってしまったり、保釈金融業者のロバート・フォスターまでをもまんまと騙してしまったりしたら、この映画は台無しになる。たんなるお約束通りの映画になってしまう。)例えば、役割からすれば、ロバート・フォスターが最も五十万ドルを持ち逃げしやすい位置にいながら、パム・グリアは信頼してその役を彼に託し、彼もそれを裏切らない。つまりこの映画は、どんでん返しやアイデアの面白さを追求する先の読めない犯罪映画ではなく、どこか素人っぽい甘さのある、パム・グリアとロバート・フォスターという中年たちのぎこちない(恋愛にまで至ることのない)友愛のような関係を描く映画なのだ。メキシコへとたつパム・グリアと、アメリカに残るロバート・フォスターとの別れのラストシーンのもどかしさは、この映画の良さがもっとも分りやすく出ているように思う。
(ただ、映画としての持続を支えるものとして、サミュエル・L・ジャクソンの俳優としての力に頼り過ぎているようにも思うけど。)