「私」の(同一性ではなく)連続性

●何年も前に書いた日記を読み返したりすると、それを本当に自分が書いたのかと驚いたり、恥ずかしくなったりすることがある。と、言うことをよく言ったりする。しかし実は、それを意外に感じたり、違和感をもったり、恥ずかしく思ったりしながらも、どこかでそれが「自分」によって書かれたものでしかない、自分が書いたものでしかない、という感覚が頑としてあることも否定できない。
「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめることは出来ない」という岡崎乾二郎の言葉は、ある美的な感覚の同一性が、自分自身に対してさえ保証されないことを言っていると思われる。しかしここで、最初の「自分が見ている青」と後の「自分が見ている青」とで、「青」の同一性は保証されなくても、それを見ている「自分」の連続性は保たれている。勿論ここでは、「青」の同一性が保証されないことによって、「自分」の同一性さえも保証されないということが言われている。それはつまり「自分が感じている自分と、自分が感じている自分とが、同じであるとは確かめられない」ということでもある。しかしここでも、自分を感じている「自分」の(同一性ではなく)連続性は残っている。(岡崎氏ならこの連続性を、自分1と自分2とのズレによって生じる効果でしかなく、事後的にズレを解消すべく要請されるフィクションであって、それを事前にまで遡って「連続した基底」があったかのごとく思い込む誤謬だと言うだろう。これに従うとすれば、「私の連続性」を、「連続した基底があったかのようなフィクションを要請する強い力」と言い換えてもよい。)これは、内容や名前としての自分の同一性ではなく、(内容を盛り込み、名付けられる)器としての、場としての自分の連続性だと言える。私は孤独だ、と言えるのも、一年前に孤独だった「私」と、昨日、孤独だった「私」と、今、孤独である「私」とが「連続している」という感覚を持っているからだ。(孤独という「環境」の連続性が私の連続性を支えているのか、それとも、私の連続性が孤独の連続性の根拠となるのだろうか。)
昨日の昼食に何を食べたのかを忘れてしまっていても、昨日の昼の「私」と、今朝、目覚めた「私」とが連続しているという感覚は維持されているとしたら、私の連続性は「記憶(つまり、内容)」だけによって支えられているわけではないということだろう。内容が変化し、書き換えられたとしてもなおつづいている「私」の連続性という感覚は、なにによるのだろうか。だがそもそも、すべての記憶を失ってもまだ、私が連続しているという感覚は残るのだろうか。
(記憶が失われると言っても、痕跡としての記憶が破壊されてしまうことと、記憶の痕跡は残りつつも、そこへの意識的なアクセスの道が途絶えてしまうということとは、全く別のことだろう。後者であるならば、無意識の領域では記憶が保持されているので、私が連続しているという感覚は生きているかもしれない。)
荒川修作が「死なない」という言葉で言おうとしているのは、基底的な「私の連続性」を切断して、何かを知覚するたびにその都度何度も「私」があらたに立ち上がるような事態なのかも知れない。(私の同一性の解体など、大した問題ではないだろう。問題なのは、私が解体されてもなお、その底で働いている「私の連続性」の方にある。それを「解体する」ことが良いことなのかどうかは分らないけど、少なくとも「そこ」にまで立ち入らなければ、「芸術」は面白くないと思う。)