●銀行へ行ってお金をおろし、昨日注文した本の料金を振り込んで、次に水道局で下水道代、東京電力の窓口で電気代の、それぞれ滞納分を支払う。両方とも、19日までに払わないととめるとか言うんで。そのままツタヤへ行って、借りていたDVDを返して、また借りる。原稿のために観る必要がある三本の映画のうち、二本はあったけど、あと一本がない。また別のツタヤで探さなくてはいけない。その探している映画が、セルDVDとして1500円で売っていて、迷ったが買わなかった。銀行、水道局、東京電力、ツタヤはそれぞれ、けっこう離れているので、すべて徒歩でまわると二時間半以上かかり、ちょうどよい散歩のかわりになった。
●午後からは喫茶店でずっと作家論のゲラの直し。赤いボールペンを忘れてきたので、青いボールペンで直す。これはきっと、面白い、はず。
●夜は、原稿のための映画のDVDを観る。その映画のナレーションで語られた「ボクシングの魔力、限界を超えた苦痛に耐えさせ(…)自分だけに見える夢にすべてを賭けさせる力を持つ」という言葉に素朴に感動してしまった。多くの人がみる「夢」とは、すでに社会的に承認されたものであり、それをかなえることが他者の承認につなかることがあらかじめ約束されてしまっている。しかしそれは「夢」という言葉に値しない。夢とは未だかたちにならないほど大きな何かであり、それは既成の言葉ではまだどこにも書き込まれていないものだから、それを懐胎してしまった者は、その「自分だけに見えている」ものを他者に説明することも出来ないし、自分自身に説明することすら出来ないかもしれない。だからその人は孤独であり、しかしその孤独は祝福されたものだ。夢を抱えてしまった者、夢みる者は、説明不能な「それ」の途方もない大きさと、未だ何ものも為してはいない自分自身の小ささとの隙間に存在する。この映画の、夜間バスのなかで一人で食べ物を頬張りペットポトルから水を飲む女の姿を写すショットは、その途方もないギャップのなかに存在する者の、孤独と不安と昂揚と喜びとを明確に示している。偉大な何かを成し遂げた者のみが偉大であるという考えは、資本主義的な成果主義に既に汚染されている。「自分だけに見える」ものに「すべてを賭ける」ことが出来る者は、結果として何かを為すか為さないかに関係なく、ひとしく偉大な存在なのだ。