●ちょっと時間ができた。少し前まで強く降っていた雨もあがったようなので、表に出ることにする。南回りで大回りして、高台になっている地帯を通って、隣りの駅まで行った。しばらく通ってなかった富士森公園を横切ると、ずっと工事中だった野球場のスコアボードが新しくなっていた。むっとするほど濃い緑。しかし今年は蝉の声をあまり聴かない。花見の時期には屋台がずらっと並ぶ、陸上競技場の脇の桜並木の下を通って公園を抜ける。5時を過ぎているので、テニスコートにも陸上競技場にも誰もいなかった。住宅街を通っている時、遠くから消防車のウーウーいうサイレンが近付いてくる。それに反応して一匹の犬が吠える。さらに、その犬に呼応して、何匹かの犬の声が重なって掛け合いがはじまる。そのうち、どこかで飼っているらしいインコのギャアギャアいう声も重なる。手前から、自転車の前カゴに茶色くて毛足の長い、耳のだらっと垂れたぬいぐるみみたいな犬を入れた中年女性が自転車を押して歩いてくるのだが、その前カゴの犬も、力のない、か細い声で吠えている。
暑さよりも湿気とにおいが夏を感じさせる。隣りの駅近くの人通りの多い繁華街をうろうろしている時、時間を確認するために携帯を見たら着信が記録されていた。静かな場所を探し、駅から延々と長くつづくユーロードという商店街の通りに面したチェーンの喫茶店に入り、コーヒーを頼んで階段を上り、二階の窓際の席に座る。でも、思ったよりも静かじゃない。反対側の耳を指で塞ぎながら電話する。着信は編集者からで、原稿はこのまま入校して、細かい直しはゲラにしてから、ということとなる。電話をしながら、まだ薄明るい空と、街灯やネオンの光の入り交じるなかを行き来する人々を眺めている。電話の向こうは慌ただしい編集部なのだろうか。そのまま、そこで少し本を読む。
●以下は引用。内田百けん「夜の杉」より。こういう「視線」が小説に書き込まれて保存され、それを、書かれてから五十年くらいたって、書いた人とは縁もゆかりも無いぼくが読んで、それがぼくの頭のなかで再現される、というのはとても不思議なことだ。小説のリアリティというのはおそらくそういうところにあって、そこを抜きにして、どんなもっともらしいことを言ったって、嘘くさいし、空しいだけだ。
《私の家の二階の座敷の縁側の、雀の塒(ねぐら)を見届けた向きと反対の目の先に、煎餅屋の裏二階があって、開けひろげた暑そうな部屋に、昼間から蚊帳が釣ってあるのが見える。
煎餅焼きの若い職人は住み込みだったと見えて、そこが寝床になっているらしい。夕方早く、まだ外は明るいのに、裸でその蚊帳の中へ這入って行く。
蚊帳へ這入る前、必ず私の方を見る。
つまり私がいつもその時刻にそこにいるから、ついこちらを見る事になるのだろう。毎日のことなので顔も見覚えたが、別に会釈するでもなく、声が届く位の所だけど、勿論何も云わない。ただ毎日同じ姿勢で蚊帳の前にかがみ、蚊帳の裾をたくり上げる時に必ずこちらを見るのが私の方で気になり出した。だからもうそこにいるのは止めようとは思わない。寧ろその時刻を外さない様にちゃんとそこにいて、裸の職人が暑そうな蚊帳の中へ這入るのを見届けなければ気が済まぬ様な妙な気持ちになった。》