●お知らせ。11月13日(土)から28日(日)まで行われる桑沢洋子生誕百年記念の「SO+ZO展」の概要と出品者がデザインネットというところのニュースに載ってました(http://event.japandesign.ne.jp/news/22255101108/)。ぼくの名前も一番下にあります。
●ずっと見つからなかった『ざくろの色』のDVDを夜中に見ていたら、あまりにも素晴らし過ぎて眠れなくなった。シンプルな形象が含み持つ、信じ難い複雑さ。観えているものはシンプルなのに、そこから、とても受け取りきれないほどのものがあふれ出ていて、出来るだけ受け取ろうと必死になっても、ぼろぼろと手からこぼれてしまう感じ。
例えば、複雑なアルゴリズムや、重層化するネットワーク、多様に現れては消える無数の形象の乱舞、を、そのまま見えるようにしたとしても、あまりにも複雑過ぎて、そこから受け取ることの出来るのは、結局「カオス」というような単調な図像−認識であり、それ自体が陳腐な比喩となってしまう。あるいは、すべてを照らし出す絶対的な光は、人の眼にはホワイトアウトとしてしか現れず、それは盲目に等しい。そうではなく、あるシンプルな形象が、複雑な過程を経て出てきたものだと分かるだけの何かを含み持っていること。そのような形象をどう捕まえ、どのようにして構成することが出来るのか。人が把握可能な形象のなかに、把握不可能な複雑な力の絡み合いを内包させること。それをどのように感じ取ることが出来るのか。
複雑過ぎるネットワーク、複雑過ぎるこの世界そのもの、そこで起こっている様々な力や出来事の絡み合いのすべてを、網羅的、俯瞰的に捉えることは誰にも出来ない。コンピューターの演算能力が飛躍的に上がったとして、人が知ることが出来るのはその演算の結果であって、そのあまりに膨大な過程の全てを知り、追体験し、感じ取ることは出来ない。いや、コンピューターとか言う必要はないのか。自らの脳で行われている複雑な演算過程の全てさえ、その全てを知り、感じることは出来ない。せいぜいそのプロセスを比喩として把握することが出来るだけだ。
だから、全体を(外側から)比喩として把握するのではなく、端末にあらわれる具体的な出力形が、その背後に複雑な演算過程があることを、その形のもつ「深さ」として表現する、ということを考えた方がいいのではないか。ここで「深さ」という言葉はあまり適切ではない気もするのだが。端末上の出力形として、世界の複雑さが「その都度」どう表現されているのか、特異的(具体的)な「形」というのは要するにそういうことで、その特異性という貧しさのなかにしか、世界そのものの複雑さは表現されないのではないか。
この世界に無数にあり得る特異性を「多様性」と呼ぶのは俯瞰的な視線であって、それはあくまで、それぞれ個々の限定的な必然であり、つまりそれぞれ別の「貧しさ」として捉えるべきではないか。
貧しさとしての特異性(形)とは、比喩的にではなく、自らその限定的な過程そのものに入り込み、限定的な過程そのものになることによってしか得られない。自らがその限定的な過程になるということは、別の過程である可能性を捨てるということになる。深さ(固有の具体的過程)をもつ形態は必然的に貧しさをもつ。だから貧しさとは、豊かで無いということではなく、その道を行ったらもう戻ってこられない道を行くことではないか。
それぞれが個別の、交換出来ない、具体的(限定的)な過程をもつ「貧しさ」たちが、互いに共鳴し、あるいは経験を交換する、ということはどういうことなのか、それはどのように可能なのか。