●古いトイピアノを見つけた。その底部に引き出しがあって、それを開くと何本もの古い使いかけのクレヨンが入っている。そのクレヨンの色や長さや配置を変えることで、そのトイピアノの音色が変わる。いろいろと配置を変えて試してみるけど、みつけた時のそのままが一番良かった。という夢をみた。
●自分自身ときちんと向き合う、問題に対して正面から取り組む。これは確かに重要なことだけど、「そうする」ことと「そう意識する」こととは微妙に違う。「自分ときちんと向き合わなくては…」と意識することには、どうしても自意識のヒロイズムやナルシシズムがつきまとう。あるいは、そう意識することで余計なところに力が入ってしまう。余計なところに力が入ると、出来ることもできなくなってしまう。だから、問題にきちんと取り組むためには、「きちんと取り組まなくてはいけない」という意識をうまく外してやる必要があるんじゃないだろうか。問題から、逃げるのでもなく、立ち向かうのでもない、という状態で、目はよそを向きつつ、体勢はそちらに向かっている、というような状態をつくってやる、というような。あるいは、重要な問題は、いつも頭の隅に置いておきつつも、そこに考えを集中させないようにして、別のことを考えている、という風に。
自分の能力を超えた過剰な負荷や緊張は、逆説的に過度な防衛体勢を作動させてしまう。意識による強硬な突破は、それへの反作用として強い無意識的抵抗に出会う。それが重要な問題であれば、嫌でもその問題のなかにいるわけだから、ことさら「それ」ばかりに意識がもっていってってしまうと、知らないうちに(問題への対処とは逆向きにはたらく)防衛的な機制を過剰に作動させてしまい、頭やからだを硬直化させることになる。肩に力が入っていたり、鼻息が荒くなっている状態では、頭もからだも動かない。防衛的規制を「意識」によって外すのはおそらく困難であるから、そうではなく、上手くよそを向くことでガードを緩くして、いわば自然に体勢が問題の方に向いて動いてゆくようにする方がいい気がする。恐怖を意思(あるいは正確な情報とか)によって克服するという構えが既に、意識のナルシシズムを含んでいるように感じる(そのような「肩に力が入った状態」に固着し、そのような状態に愛着をもつ人は少なからずいるけど)。
問題に対して意識的であることは、しばしば、わたしと問題とのつながりを切断してしまうことにもなる(問題のなかのわたしの居場所がわからなくなる)。問題と正対するのではなく、どのように問題のなかに入り込むことが出来るのかが重要である気がする。
●以下の引用は、人見眞理によるリハビリテーションに関するものだが、とても重要な示唆を含んでいるように思われる。「「現れ」考」(現代思想2009年12月臨時増刊 総特集フッサール)より。このテキストは、まるまる全てを引用したくなるほどすばらしい。
《不均衡は誰にとっても一つの強度である。誰であれ、不均衡を感じると反射的に防御反応を呈す。体性感覚や前庭覚として不均衡を感知すれば平衡反応が起こり、他者や状況との関係性において不均衡を感じれば、親しみのある安心できる関係性へと戻ろうとする。変化や展開など、何か新しい動きを含むものを拒み、遠のこうとする、刺激反応的な身体図式である。》
《しかし、そもそも動くということには不均衡が含まれ、行為とはそれを引き受けることである。したがって、もし動くということが不均衡を強度とした防御反応として起こるなら、その動きは身体の固定と静止に帰結する。全体としては、まるで積み木を並べたような個別の動きの連なりとなる。》
《この場合、いくら動作を練習しても動作は少しも滑らかにはならず、動作そのものの質は変化しない。本人はそのつど強度を感じ取り、そのつどそれに拮抗することへと向かうのみである。このとき、世界との接点には、常に不均衡をもたらす知覚しかなく、それを生み出す身体は、安定した世界に拮抗する不安定要因である。身体は、不均衡という強力な強度の前に、黙って従属せざるを得ない。》
《こうした事態に対しては、自らの身体により仔細に注意を向けるのではなく、自らの不均衡をいったん不問にし、しかも不問にしたまま同時に身体で世界を感じ取ることができるような、二重の設定が必要である。》
《たとえば、立位を自力で保ちながら、手指で接触素材の違いを感じ取り、それを目で確認するような課題である。手で感じ取っているとき、立位保持に含まれる不均衡な要素は、当面帳消しにされ、身体はいったん不均衡の強度から解放される。注意が手に感じる知覚に向けられているさなかで、立位保持のための筋収縮や上肢を動かすことに応じた足底での荷重配分は自動的に維持される。ただし、これは実際の行為の「裏」で行われていること(この場合は立位を保つこと)が、不均衡回避という本人が本来持っている強度を侵食しないために受け入れられる設定である。たとえば立ち上がりや歩行など、連続的な重心移動下で、不均衡を不問にする二重の設定を作るのは、当然のことながら容易ではない。したがって、この二重の設定は、受け入れられる範囲において少しずつ部分的な動きを入れた設定に移行してゆく必要がある。》