●今日は歩いた。こんなに歩いたのはイタリアへ旅行した時以来ではないか。
●一泊して帰る予定だったのだけど、せっかく尾道まで来たのだし、もう一泊してゆくことにしたので、今日は帰らなくてもよい。
●良く晴れていて、宿を出て海の方へ歩くと昨日とは海の見え方が全然違っていた(昨日は曇っていた)。
ゴダールの撮るレマン湖みたいな光。ちょっと雲がさすとアンゲロプロスの地中海みたいな感じ。驚いた。海の水自体はそんなにきれいじゃないのだけど、光の強さと透明度が違う。色が澄んで、物がクリアに見える。世の中には印象派もどきみたいな絵がごまんとあって、そういう絵を観るといつもうんざりするのだけど、こういう光のもとで風景を見るとベタにそういう絵が描きたくなる気持ちがよく分かるような気がした。いやもう、今、イーゼルを立てて描きたい。午前中はずっと、恍惚となりながら海をぼーっと見ていた。光の変化を見ているだけでまったく飽きない。凡庸なフレームの「風景写真」をたくさん撮ってしまう。
●尾道駅の周辺部は、海があって、それと並行して道路があり、線路があって、山がある。大ざっぱに、海岸があって、商店街があって、山には住宅があって、それらが並行しているという感じ。商店街には、ちょっと中央線文化圏みたいな匂いもある。海は地中海で、商店街は中央線で、山はリアル・アラカワ。で、特徴的なのは、それらがとても狭い範囲のなかにぎゅっと詰まっているというところではないか。だから、どこにいてもそれらが常に重なって見える。商店街の隙間からは海や山がちらちら見えるし、海から視線を逆向きにすると山の斜面に建物が貼りついてせり上がっているし(海に向ける視線もまるで鏡のようにすぐに対岸の島に突き当たる)、ごちゃごちゃしたリアル・アラカワ・ワールドもまた、商店街を見下ろし、海に開けている。だからそれらが相互干渉する。キュビズムの絵とマティスの絵とが向い合せになっていて、相互に干渉しているようだ。要するに、どこにいて、どちらを向いても常にいろんなものがごちゃごちゃ重なって視界に入ってくる。視界はいつも、部分的に遮られ、部分的に開けている。ちょっと位置をかえ、ちょっと視線を動かすだけで、その重なりの構成や複雑度、遮りと開けの配分や配置が、めまぐるしく変わる。どこにいても、すべてを見通すことは出来ないし、逆にもどこにいてもどこかから見られている感じでもある。
●いや、こういう書き方だけでは、そういう場所は都市部であれば割とどこにでもあるし、建築物として人工的に設計することも可能だとも言えてしまう。しかし、その圧縮度、複雑度とバリエーションがすごいことになっている。それは、計画されてそうなったのではなく、歴史のなかで自然発生的に(環境と歴史と人の脳との絡み合いによって)そうなったということと、もう一つ、土地がコンパクトで狭いということとが大きいように感じられた。「狭さ」(狭いところに強引に織り込んでゆく感じ)がいろんなものをなし崩しに重ね合わせ、織り合せ、コンプレックスしてゆくというか(たんに空間としてというだけでなく、人間関係なども含めて、そういう感じがした、二日間だけ、数人の人に会っただけ、の印象だけど)。
●いや、ただ圧縮して、情報量がたくさん詰め込まれているというのでもない感じもする。「隙間の空きかた」もまた複雑化している感じ。おそらく尾道でも、他の地方都市と同様、人口の流出や減少のような問題があって、実際、空き家がどんどん増えているという。でもおそらく、狭い傾斜地に強引に建てたような建物は、壊してしまうと(建築法上)同じようには二度と建てられないだろうし、また、新しく建てたとしても、車が入れないどころか大きな荷物を運ぶことさえ困難な細く蛇行し傾斜する路地の先にある家など、ほとんど商品価値はないだろう。しかし、土地を均して便利に作り変えると尾道の観光資源が台無しになってしまうから大規模な開発はできない。要するにここでは土地や建物に関して「大きな」お金や力は動きようがないのだと思う。これは「尾道」にとってジレンマなのかもしれないけど、しかしそれはつまり、小さなお金や小さな力にも介入の余地があるということだろう。そこで様々な小さな動きや、様々なやりかたでの働きかけがなされてゆく、ということになっているみたいなのだ。一方で、様々な理由で生まれる空洞があり、もう一方でそれを様々なやりかたで利用しようとする実践が行われていて、そういう複数の力の絡まり合いが、もともと複雑な空間をさらに複雑にしているようだ。
●観光スポットとしてのおしゃれ尾道だけではない、上記のようなディープ尾道を、それなりに踏み込んだところまで見せてもらえたように思う。少なくとも、奥が深いということを「感じる」ことが出来る程度には。
●あと、尾道の若いアーティストや学生は、かなり自由に無茶することが出来ているように感じられたのだが、その無茶を、鷹揚に受け入れて許しているような空気が土壌全体にあるように感じたられた。それはすごくいい感じだ。
●いつも思うのだけど、競争によって高い質や公正性が保たれるという考えは根本的に間違っている(ライバル関係で作用しているのは、互いに刺激しあう相互作用であって競争ではない)。それどころか、それはこの世界をどんどん悪いものにしてゆく思考だと思う。もちろん、競争は現実にあるし、簡単にはなくならない。それは事実として否定できない。しかしそれがあたかもポジティブなことであるかのように扱われるのはどうしても納得できない。
創造性のポテンシャルは、それぞれの人がどれだけ自由に(つまり失敗を恐れずに)自らの持つ可能性を見誤ることなく追及できるのかにかかっているのであって(競争はしばしば、ここを見誤らせるがゆえに悪である)、「層の厚さ」というのは可能性の総量であって競争するコマの総量ではない。つまり、たくさんの可能性が試されれば、そこからより創造的で革新的なものが生まれ、育つ確率も高くなるということだ。だからそこで重要なのは競争ではなく、失敗を恐れずに自由に実験し探求することを許す空気であり、結果ではなく実験や探求そのものに対するリスペクトだ。社会が危機的であればある程いっそう、その空気は重要になるはず。「結果」は、失敗を受け入れる空気や様々な探究全体から生まれるのであって、たまたま「結果を出した人」からだけ生まれるものではない。結果を出した人は勿論それなりにエライと言えるけど、結果を出さなかったがその空気をつくった人に比べて著しくエライわけではない。というか、空気をつくることこそが最も重要だとさえ言えるのではないかと最近は思う。リスペクトされるべきなのは「結果を出した人」ではなく「実験」や「探求」であり、それを支えるのは「競争」ではなく「自由に失敗できる空気」だし、「可能性の探求」そのものに対するリスペクトだと思う。
(「結果」が重要ではないということじゃない。「結果」はすごく重要だ。いや「結果」こそが重要だ。しかしだからこそ、「結果を出した人」が誰であるのかは重要ではないし、結果に結びつかなかったとしても「探求」そのものへのリスペクト(これこそが「自由に失敗できる空気」をつくると思うから)」が重要だということ。「結果」は、決して「結果を出した人」のものではない。あるいは、失敗の責任は失敗した人だけにあるのではない。結果は可能性のポテンシャルのなかから生まれるのであって、ある特定の個人やグループだけから生まれるのではない。)
●誰がエラくて誰がダメだとか、誰々はなんとかの総括をせよとか、そういうことは本当にもうどうでもいいと思う。