楳図かずおの『14歳』を一気読みしてしまい、あまりの強烈さと密度に呆然自失となり、何も手に着かない感じになった。この人、ほんとにすごい人なんだなと改めて思った。
この作品が連載されていた頃には楳図かずおは五十代後半だったので(ぼくは連載時に読んでいたけど、当時『わたしは真悟』にどっぷりとはまっていたぼくには、それとあまりに感じの違うこの作品の面白さがよく分からなかった、というか、この作品はまとめて読まないと、連載でとぎれとぎれに読んでもほとんど分からない)、その年齢で週刊誌連載はかなりきつかったということもあるのだろうけど、でもそれよりおそらく腱鞘炎が既にかなりひどくなっていたためだと思われるのだけど、絵がかなり崩れてしまっている。何より線が死んでいるというか、線を制御する気力がないというか、あの楳図かずおの絵とは思えないような芯が抜けているような絵で、しかも場面によっての絵のクオリティのばらつきもけっこう目立つように感じた。例えば、異様な生物とか宇宙人とか様々な機械類とかを、その造形力や描写力によって説得力をもたせようとしているようには思えない。しかし『14歳』はとてつもない作品で、そのことが少しも作品の強さを損ねていないということに驚くのだった。
(あるいは、往年の楳図クオリティの絵で描かれていたら、ここまで大胆に踏み込んだ作品にはならなかったかもしれない。ある意味、絵のクオリティはある程度放棄する−−身体的に放棄せざるを得ない−−という形の開き直りがあったから、ここまでやれたのかもしれない。絵の密度による表現性の強さとは別の強さの方へと、作品に込められた熱量のバランスが変化しているというのか。)
それは逆に言えば、楳図作品において「絵の密度」というのはもともと本質的な要素ではないのではないかということでもある気がした。もちろん、楳図かずおの絵は、唯一無二のユニークさと非常に密度の高い描写力とを持ち、それ自体として充実したとてもすばらしいもので、その画力が作品を支えている面があることは間違いないのだけど、それは楳図作品において必ずしも不可欠ということではない、といえるのではないか。もし仮に、楳図かずお楳図かずお程の画力がなかったとしても、楳図かずお足り得たのではないか、というような意味で。密度のある絵がなくても、言葉と記号と最低限の図のようなものがあれば、ミニマルな楳図作品は成立し、それは十分に楳図作品と言える強さをもつのではないか。何というのか、楳図かずおの作品は、根本的に視覚的(あるいは感覚的)なものに支えられているのではないのではないか、というか。細野晴臣の有名に言葉で、頭クラクラ(コンセプト)、みぞおちワクワク(メロディ)、下半身モヤモヤ(リズム)というのがあるけど、楳図かずおの作品を支えるもっとも基本的な要素は、頭クラクラなのではないか。チキン・ジョージのインパクトは、視覚から入ってくるけど、むろ言語的なものの方で作用するのではないか。視覚から入るが、いったん言語を経由してから、感覚への作用へとひろがってゆく、というのか。
『14歳』においては、絵の(芯のようなものの)崩れが、それを読む者に対して言語的な(まあ、この言葉はあまり使いたくないのだが、象徴界的な)基底の崩れを予感させる作用として働くようにも感じられる。
こういう言い方はたぶんすごく誤解されやすい気がするけど(というか、そもそも上手く言えていない気がするけど)、例えばこのことと、デヴィッド・リンチが、視覚的なクオリティを犠牲にしても『インランド・エンパイア』のような製作形態を選んだということとも近いように思う。ここで、ショットのクオリティをある程度は放棄することによって、別の方向へのひろがりが開かれている。そして、実はこの方向へのひろがりこそが、リンチの作品をもともと支えていたものに近かったのではないか、という感じ。