●ぼくは今、45歳なのだが、高校三年生でもあって(つまり、この年齢で高校に入り直していて)、しかもなぜか偶然にもそのクラスには、中学の時に同級生だった人が何人かいる。このことをそのように意識したとたん、それまで当然のこと(疑いようのない前提)だと思っていたその事実が、そんなことはあり得ないはずのことだと気付いて、そういう夢を見ていたに過ぎないのだと判断せざるを得ず、ある一定の幅の時間がまるごと消失してしまったように感じ、そのことに対する深い喪失感で呆然とした。そして同時に、呆然としている今もまた、夢であるということに気付くのだった。
それが夢でしかないと気付いた場所も学校の教室で、しかしそこにはもう、自分とは何の関係もない子供たちしかいないのだった。
●上の文は、今朝、目が覚めてすぐ、頭がまだぼーっとしている状態で書いた。しかし、このように文にすると全然面白くないなあと思う。
まず、現在の自分のまま高校生になっていて、しかもそこに中学の同級生が(自分との同じように、年相応のままで)同じクラスにいるという、ひねくれたノスタルジーの形に自分でも可笑しくなるのだが、そこは夢であって、現在の自分とはいいつつ、実際には感覚としてはかなり若返っている方に修正されている感じで、だからこれは普通のノスタルジーと、加齢という事実に対する否認が混じった感情なのだろう。
自分として面白かったのは、そのように意識した途端に「当然の前提」が崩れてしまうという出来事で、これはきっと、それより前に「今のままで高校生になっていて中学の同級生も同じクラスにいる」という状況の夢を見ていたというわけではなくて、そのように意識することと、「そのような前提があった」という事実が成立したことと、そのような事実などなく「夢だった」と分かったことが、夢のなかですべて同時に起こっているということなのだと思う。つまり、「そのように意識する」ことで、過去に向かって前提がつくられ、現在においてその前提の崩壊が生じる、という二つの出来事が起きる。前提が崩れることで過去が生まれ(生まれると同時に消失し)、過去に押し出されるように現在(喪失感)が生じる。
ここでは二つのことが起きている。まず、おそらく、時間とはこのようにして生まれる。たぶん夢のなかでぼくは、深い喪失感とともに時間の発生を感じていた。だとすると、ここで「時間の発生」はまさに「時間の否認(「ノスタルジー」と「加齢の否認」)」とほとんど同じことになる。
二つ目。だがここでは正確には、過去が生じるのではなく、過去が生じると同時に否定されている。今、生じた出来事が遡行的に作用して、効果としての過去を生み出し、それが喪失感を生むのではなく、ある状態が時間の流れ(過去、現在、未来)のなかから(発生と同時に)零れ落ちる。「過去だと思っていた」と「今、思う」ことによって、「過去の内容」が帰属先を失う。「夢だった」ということの意味は、たんに「現実ではなかった」というだけでなく、そもそも「そんな夢など見ていなかった(にもかかわらず記憶がある)」ということになる。はじめから無かったはずのものの残骸が何故か手元に残っている。そして、深い喪失感とはきっと、こちらの方と関係がある。