●生まれて半世紀。
ぼくは三浪しているのだけど、ようやく大学に入って、入ったばかりの四月、大学のバス停でバスを降り、アトリエへと向かう坂道を登っている時の、なんとも言えないふわふわとした感じが、その後三十年、ずっとつづいている。
小、中、高校と、「学校」という特定の場所、特定の関係性に、一日の大半の時間を拘束されることがずっと苦痛だった。学校という場所が嫌いというよりも(まあ、好きではないけど)、他にやりたいことがあるのに(それは、小学校の時は、チャリンコを乗り回したいだったり、川でフナやザリガニをとりたいだったりしたのが、高校になると、東京まで映画を観に行きたい、とか、映画をつくりたいとかに変わるというように、年齢によって変化するのだけど)、こんな狭い場所と狭い人間関係のなかで一日の大半を過ごさねばならず、それに頭や労力の多くを割かれてしまうことへの苦痛だった。
大学に入ってはじめて、朝起きて、その日にすることをほぼ全部自分で決められる、やりたいことだけをやっていればいいことになった。ふわふわした感じは、解放感でもある。そして、たぶんそこでぼくの時間は止まってしまっている。
だから、ふと気づいたら、1989年4月で、それ以降の時間は大学のアトリエの隅でうたた寝している時に見た夢だった、ということになってもあまり驚かない(あの日に帰りたい、と言っているのではない、たんに、そうだとしても驚かない、と)。
しかしそれは錯覚で、ぼくは確実に死に向かって歳をとっている。そして世界は、こちらの認識がとうてい追いつかないくらいの速さで変化している。できれば、シンギュラリティがくるまで生き延びて、それがどういうものなのかこの眼で見たい。
(たぶん、芸術とインターネットがなかったら、この歳まで生きてはこられなかったと思うので、この二つにとても感謝している。)