ヤマト運輸の人に集配に来てもらって、ブツを着払いで送り返し、長くつづいた用事がようやく完全に終わる。部屋のなかにどかっと居座っていた大きな段ボール箱ふたつがなくなって、少しすっきりした。
ぼくの部屋は、住居である以前にまずアトリエであって、アトリエとしての機能するために必要な空間を潰すような物は出来るだけ置きたくない。例えば、ぼくの部屋には掛け布団がない。だから冬は、もこもこになるくらいたくさん着て寝る。下はスウェットを三枚くらい重ねて履き、上も何枚も重ね着した上にダウンジャケットを着る。掛け布団がないのは、貧乏で買えないという以上に、それが存在するべき場所がぼくの部屋にはないということなのだ。押し入れも天袋も、画材とキャンバスと画集でびっしり詰まっていて、布団のあるべき場所がない。敷き布団が辛うじて存在する場所を確保しているのは、それがソファーベッド(5、6年前に無印で買った)で、昼間はテレビやDVDなどを観るためのソファーとしても機能しているからだ。キッチンまわりでも、最小限の食器と鍋しかなくて、電子レンジも炊飯器もオーブントースターも、フライパンさえないのだが、それも、お金がなくて買えないということよりも(勿論、お金の余裕もないのだが)、それらの物たちが存在するための場所の余裕がないということなのだ。着るものも、下着やTシャツなどが引き出しつきの小さなボックスに入れてあるのと、部屋着や寝間着となるスウェットが段ボール箱のなかに入っている以外は、ハンガーで部屋のどこかに見えるようにぶら下がっていて、部屋のなかにぶら下げられる以上に増えることはない。
部屋は、間取り的にはかなりゆったりしていて、もともと単身者が住むためというより家族で住むようにつくられている部屋で、収納もたっぷりある。ボロいけど、家賃のわりには広い(部屋と部屋の仕切りや、押し入れの仕切りなど全部とっぱらっているし、一人暮らしなので風呂やトイレを使う時もドアを閉めず常に開けっ放しなので、ひとつの大きな空間みたいになっている。住居というより倉庫で寝泊まりしているみたいな感じ。だから暖房が全然効かない。電気ストーブしかないというのもあるけど)。
しかしそれでも、物の少ないすっきりした部屋というのとは正反対で、はてしなく増殖するキャンバスと本で、どうにも収拾のつかない状態になってしまっているのだった。
●年内の用事がほぼ終わったので、とりあえず近所のツタヤに行ってみた。小津の『麦秋』と溝口の『残菊物語』が観たいなあ、とか思いつつ。何本か選んで、カウンターに持って行こうと思ったところで、カードを見て、有効期限が切れているのに気づいた。そういえば、ツタヤにもここ何ヶ月か来てなかったと思った。手に取ったDVDをもとの場所に戻して、何も借りずに手ぶらで帰ってきた。この「無駄足」っていう感じが、ああ、時間が出来た、という実感となる。