2019-02-26

●『花筐 HANAGATAMI』(大林宣彦)をU-NEXTで観た。すごかった。とりあえず、初見の感想としてはすごいとしか言えない。今まで観たどの大林宣彦よりも濃厚に大林宣彦であり、今までのさまざまな作品が想起され、しかし同時に、今までにない新しい大林宣彦でもあった。

ここには、大林宣彦という「呪い」があり、大林宣彦という「修羅」があり、大林宣彦という「煩悩」があり、それらが非常な強さと深さとで渦巻いているように感じる。八十歳をすぎ、病気を患ってもいる映画監督が、自らの死を意識していないはずはない。そのような人のつくる映画のなかでは、結核を患って死につつある美少女とか、健康を持て余すことで頽廃に向かう美少年といった紋切り型の登場人物たちも、彼らの間で結ばれる「日本近代文学」のカリカチュアであるかのような関係性も、紋切り型とはまったく異なる様相を帯びる。

作家とは一つの固有の茨の道であり、固有の「形式」であり、「わたし」とは一つの固有の「呪い」であろう。「古い問題」というのは、乗り越えられるのでも、否定されるのでもなく、たんに飽きられる。飽きられて、忘れ去られて、消える。既に飽きていることに、飽きていると気づかないまま固着する状態が知の硬直であり欺瞞であろう。しかし、既に飽きてしまった、忘れ去ってしまった過去の問題であると思われてものが、気づかないうちに、思いもしなかった形をとって、しかもしつこく繰り返し回帰してくるということがある。そのような繰り返しの回帰(形を変えて、その都度新しく繰り返し回帰してくるもの)こそが「呪い」であり、そのような「呪い」こそが「わたし」と呼ばれる何かを結晶化するのではないか(「わたし」という「執着」のようなもの)。

『花筐 HANAGATAMI』から見えてくるものは、大林宣彦という固有の「呪い」を顕在化した一つの「形」であり、それが示すのは、その「呪い」の深さと強さと執拗さだと感じられる。人が(「呪い」の強さとして)生きることは簡単ではなく、そして、死ぬこと(「呪い」が解体されること)もまた簡単ではないのだろう。どちらも苛烈で、難儀なことであろう。晩年を生きる映画監督が、自らの「煩悩」を強く、深くあらわにすることによって、そのようなことが示されていると感じた。

(「戦争」がどうとかいうことは、あくまで背景であり、もはやあまり大きな問題ではなくなっているように思われた。)