●巣鴨で保坂和志のソロトーク、二回目。運命について、始まりと終わりについて、源流は濃いということについて、など。
書き写す、ということについても話されていた。吉増剛造は吉本隆明の『言語について美とは何か』をずっと書き写していて、もうすぐすべて書き写し終えるという(そして、終わったら次は『共同幻想論』に行く、と)。
たとえば、数学の教科書をただ「読む」だけでは数学の勉強をしたことにはならなくて、ノートに式を書き写したり、練習問題を解いてみたりすることで、はじめて「勉強している」と言える。
それと同じことが、数学でなくても言えるのではないか。本当は、ただ本を読むだけでは「読んだ」とは言えず、すべて書き写すくらいの精度で読んではじめて「読んだ」と言えるのではないか。
(実際に、ただ読むだけでは、けっこう誤読する。特に理屈がややこしいところや、解釈が多義的であるようなところではなく、明快に書かれているようなところでも、人はかなりの確率で誤読する。)
何かを丁寧に読もうとするときに、「書き写してみる」と「要約してみる」の二種類のやり方がある。どちらが良いというわけではなく、どちらも「練習(あるいは学習)」の方法として重要だが、この二つはかなり方向が違っている。
(吉本隆明は、よりよく読むために、「要約する」よりも「書き写す」方が良いと思わせるような著述家だと思う。)
書き写すということは、内容的にも文体的にも、いったん違和感を呑み込んでとりあえずすべてを受け入れるということだ。これは、何かを学習しようとするときの一番はじめに重要なことだと思う。呑み込んでも呑み込んでも呑み込みきれない違和感というものもある。最初の接触で生じる違和感は玉石混淆であり、直感が正しいこともあるが、思い込みだったり、臆見だったり、誤読だったり、自分の欲望だったりに、影響されてしまっていたりすることも多々ある。あるいは、勢いに流されて違和感に気づかないこともある。この違いに気づくのはけっこう大変なことで、そのためには「書き写す」みたいなことをする必要がある。
あるいはもっと重要なのは、違和感をすべて呑み込むということをつづけていることによって、ようやく(新たに)育ってくる違和感というのがあるということだ。これは、練習することで自分が変化しているということであり、もっと言えば、それによってはじめて自分が生まれているということでもある。