2023/12/17

⚫︎『オクス駅お化け』(チョン・ヨンギ)をU-NEXTで。作品としては凡庸で、Jホラー的な傾向の作品に、もはや新鮮な何かは期待できないと改めて確認するという感じだが、そうだとしてもホラー表現には簡単に切って捨てられない、考えるべき要素が常にある。

一つは、恐怖と差別とは切り離せなくて、恐怖のあるところに差別の根はあり、差別のあるところに恐怖があるということ。そして、恐怖を持たない人はいないし、恐怖という感情は人間の根源的な感情の一つで、最もコントロールが難しい感情であるということ。

(もっと言えば、恐怖は差別よりもより深く根源的で、差別はその表層的な表れであり、恐怖の表面にそれに蓋をするためにピタッと張り付いている、という感じだろうか。)

もう一つは、恐怖を「社会的な物語」と結びつけることは、何によって正当化されるのか、ということ。そこで、「恐怖」と「社会的な物語」と、どちらに主眼が置かれるのかということ、あるいは、その二つのつながりに必然性があるのかということが問題となる。恐怖を物語化するときに、その有効なネタとして「社会的な問題」が使われるとき、いつも、えげつないと感じる。特に、そのネタが子供への虐待や搾取であるとき、とても大きな心理的な抵抗が生じる。

恐怖を物語化するためのネタとして、子供への虐待や搾取が使われるとき、すごく嫌だと感じるのと同時に、しかしこの二つには、そのような嫌悪感を超えた必然的な結びつきがあることも否定できない、とも思う。

ホラー表現は、どぎつくてえげつなく、下品で、(倫理的にも、感性的にも)時に耐え難いと感じられるものだが、その向こうに無視し難い(無視することの許されない呪いのような)何かが現れており、簡単に受け入れることもできないが、批判して(あるいは拒否して)済ませることもできず、常にそれを注視することが強いられているようなものだと思う。

(批判して済ませることができないとしても、批判することは必要だろう。)

(批判することが、批判した上で消費するというエクスキューズになることもあり、それでもダメなのだと思う。)

(批判可能なことはきっちりと批判した上で、もっとヤバい、それでもどうにもできない「処理しきれなさ」として受け取ることが要請されているように感じる。)

ホラー表現のヤバさを自覚せずに消費するのはダメなのではないかと思うが、しかしそれでも、やはり多くの人はそれを消費するのだろうし、そこにこそホラーのヤバさがあると言える。

(ホラー表現とは「手を汚す」仕事であり、その覚悟がないとできないのだなあと思う。)