2024-08-05

⚫︎何かフィクションめいたものを書いた。

眼球の表面が水分で満たされ、表面張力の閾値を超えて閉じた瞼からあふれてこぼれ落ちた。涙は顔の表面をつるっと伝う。目覚めると街中が眠っている。すべてが眠っている世界でひとり目覚める。眠ったままの蝶の羽根が二つ、エアコンの生む空気の流れに流されて宙を漂っている。黄色とオレンジが黒で強く隈取りされた羽根で鱗粉の粒のひとつひとつが眠りのなかで輝く。わたしはそれを見ていないし知らない。目覚めてもなお瞼は閉じられている。光を遮断する瞼の外で扉の鍵が自動的に解かれ、重たい音と共に重たい木製の扉が開かれた。わたしはそれを思い浮かべる。

あなたは眠るわたしを想像する。あなたに想像されたわたしの瞼の外で重たい木の扉が開かれる。それによって気流が変わり、眠ったままの二つの羽根がゆっくりと床に落ちていく。あなたの想像の外で、扉の先の廊下を二頭の鹿が眠ったまま通り過ぎる。あなたはそれを知らないがわたしは知っている。鹿は母と子である。親子は、近所の川原の、野鳥を召喚するために意図的に伸び放題の植物が野生状態に荒れたまま放置された中州に住んでるらしく、二年前からしばしば目撃されるようになった。山から降りて川伝いに下ってずっときて、山よりもむしろ海に近い土地にあるこの中州に居を構えた。母よりも一回り体の小さい子供の鹿は、開かれた扉の前を通過するとき、部屋のなかからくる空気の流れのそれまでとの違いを察知してその刺激で目覚める直前にまでなるが、手前で別の夢に捕捉されて覚めるより前に別の眠りに入り込んだ。新しい夢のなかで、扉の前とそっくり同じ廊下を進んでいく。新しい夢の子鹿は、眠ったまま歩き続けるの母の後をついて歩く。

あなたの夢のなかで目覚めたわたしはようやく瞼をひらく。瞼をあけたことで眼球に纏われていた残りの水分もつるっと溢れて落下する。直前までみていた悲しい夢をわたしは忘れている。深く深く痛切に悲しかったが跡形もない。さっきまで悲しかった場所が空っぽになったのではなく、悲しさが存在した場所ごと消えている。夢のなごりの水分の中にも悲しさはない。床に落ちた水滴にも、眠ったまま横たわる蝶の羽根にも、わたしは注意を払わない。ただ、あなたは溢れた水滴のことをいつまでも気にかけているだろう。

夢のなかで母鹿の後について歩く子鹿は、何を思ったのか夢のなかでふと立ち止まって振り返る。母鹿は気づかずにそのままどんどん先へ行く。頭だけでなく体全体の向きまで変えた子鹿は、母とは逆に元来た方向へ向けてひとりで歩き出す。しばらくして開かれた扉まで戻ると、首をかしげるようにしてなかを覗き込む。部屋にはベッドに腰をかけるわたしがいる。わたしと子鹿の目が合う。しかしこの時に子鹿が見ているわたしは子鹿の夢のなかに居るわたしだ。同じ頃、わたしの目覚めのなかで目覚めたわたしが扉の外に見ているのは子鹿ではなく母鹿だった。ただし、彼女は眠ったままなので彼女の夢のなかの何かを見ていてわたしを見てはいない。母鹿の後ろにはちゃんと子鹿がついてきている。その子鹿が今、夢のなかでわたしを見ているのだ。