6/23(金)

細かくて薄くて軽い雨。降っているというより、水分が漂っているという感じの雨。

『生きられねばならない人生などないように、読まれねばならない本などない。』

くーっ、言ってくれちゃいますね、いつものことながら。これは今日手にした松浦寿輝・編の『文学のすすめ』(筑摩書房)という本の末尾につけられたブック・ガイドでの丹生谷貴志が書き付けている言葉。(この後、「だからリストは無限だしゼロでもある。」とつづく。)この巻末のガイドでは、執筆者がそれぞれの分野での推薦の本を紹介しているのだけど、ほとんどの人が、ブック・ガイドなどをあてにして本を選ぶな、みたいな前置きをしてから、本の紹介を始めるという回りくどさで、そんなこと言うなら始めからこんな原稿書くな、と言いたいのだが、この丹生谷貴志の言葉の投げやりさというか無気力さは中でも群を抜いていて、ここまで言ってくれちゃうとむしろ清々しいというか、カッコいい。

ある画廊で、作家(女性)とオーナー(女性・作家でもある)と話していて、

『古谷くんは男だから、そうやって自分を追い込んだり、苦しめたりして、(制作している時間を)楽しめるのかもしれないけど、わたしは、やったことの結果がすぐ現れないと嫌なの・・・』

と言われる。これは、作品をつくる時間やその出来上がり方につてい話していたときに、オーナーが言った言葉。これには虚を突かれるとうか、なるほどと納得させられてしまう。男とか女とかいうのはどうか分らないけど、ぼくはどうしても、濃縮されたもの、というか、熱いもの、充実したものを求めてしまうという傾向が確かにあって、それが必ずしも悪いことだとは思わないけど、でも、それだけじゃ駄目なんだ、ということを、結構忘れがちなところがあったりする。というか、結局その熱さって、自己満足(それを楽しんでいるだけ)でしかないのだ、という突き放し方が出来なければ、熱さなんてものは醜くて犯罪的なものでしかないのだ。(でも、どうしても希薄さに充足することは出来なくて、それはまあ、そういう奴なんだからしょうがない、と言うしかないのだろう。)

確か中井久夫が書いていたと思うのだけど、分裂病には妙な癒着性のようなものがあって、患者はその苦しみに対して愛着に近い感情を無意識のうちに抱いてしまい、それが回復の妨げになることが、ままある、らしいのだけど、ぼくにもそれに近い「間違った頑さ」みたいなものに陥りがちなところが、どうしてもあるんだよなあ。

歩いていて、菅原清実さんと擦れ違う。「よおっ」という威勢のいい職人風の声で気がついた。「なんか元気そうだねえ」と、「きよみ」(男性)という名前に似合わないガラガラ声で言われた。