●一日、根を詰めて制作していたので、目が疲れてものを観る力がない。モニターの上の文字の形をはっきりと掴もうと、目を凝らしてみても、目が観ることを拒否する感じで、文字を追うだけでもきつい。夕方、買い物に行ったついでに駅前の本屋で、「群像」(松浦寿輝の小説を読むため)、と「文學界」(同じく、松浦寿輝の小説を読むため)の1月号と「ユリイカ」(丹生谷貴志やサドッホを読むため)のベンヤミン特集を購入。しかし集中して読む気力はなく、パラパラ眺めていると、「群像」の文芸時評でも、「文學界」の新人小説月評でも、この日記で先月大プッシュした小説家、大道珠貴の『ひさしぶりにさようなら』と『しょっぱいドライブ』(11/09〜11/13までの日記を参照されたい)は共に、まあまあ好意的な評価を得ることが出来ているのが分かった。しかしその誉め方はなんとも通り一遍なもので、力のある人がまあまあの力を発揮した、みたいな感じでしかなく、「誉め殺し」っていう言葉の意味とはちょっと違うけど、誉めることでこの作家を生かそうとか輝かそうという気持ちが全く感じられない。(「文學界」では立松和平が、大道氏の単行本『裸』の書評を書いているのだが、これも、いかにも「女流作家」を誉める時の古くさいフォーマット通りの書き方をしていて、これじゃあ知らない人は大道氏を「古くさい女流作家」みたいに思ってしまうだろう。「群像」の文芸時評の秋山駿もそのセンで、このまま「感性で書く女流作家」みたいなポストに納められてしまうとしたら、とても不当なことだと思う。)時評とか書評というものが、批評というよりもパフォーマンス性の強いものだとすれば(勿論、そうではないという立場もあるだろうが、例えば「人間、守りに入った時がいちばん恰好悪い。」という文で文芸時評を開始する永江朗などは、はっきりそのセンを狙っているはずだ)、舞城王太郎とか佐藤友哉とかいういわば「旬」の作家は、誉めるにしても貶すにしてもそれほど難しいとは思えず、むしろ大道珠貴のように、読めば明らかに面白いにも関わらず、どのように誉めればその魅力を充分に人に伝えられるかと考えるととても難しい(しかもそれほど「有名」ではない)ような作家について書いて、人を納得させてこそその評者の「腕」が示されるのではないかと思うのだけど、「保守的な態度は文芸から遠い」とか「文芸は常に破壊的でなければならない」とか威勢良く言う永江氏は、その割に誰が見ても「旬」であり「話題」である舞城王太郎を大きく取り上げるという、全く「常識的」で「保守的」な行いしかしていないのだった。