松浦寿輝『鰈』

02/12/12(木)
●「群像」1月号、松浦寿輝『鰈』を読む。いつもながらの松浦寿輝の反復。今回は、熟れ過ぎて腐った『銀河鉄道の夜』のパロディのような趣もある。この小説からは何も「新しさ」や「驚き」などは得られないだろう。ただ、その紡ぎ出され連なってゆく言葉の持続のうちに、現実と幻想、夢とうつつ、生と死との、どちらともつかない中間地帯が拡がってゆき、言葉を追いつつそこへと漂い出て、そこでしばらくたゆたっているという幻想を味わうことになる。(これも全くいつも通りで、この単調な反復は、ほとんど天澤退二郎の域に達しつつある。)この幻想を何か根元的なものだとか深淵なものだとかは言わない。しかしこの経験は限りなく貴重なものだと思う。具体的な時間や場所を失ったいつでもなくどこでもないところ(しかしそれは、日比谷線の恵比寿〜北千住のどこかを走る電車のなかでもあるのだが)に、一人の男の生のあらゆる瞬間がぼんやりと宙に浮かぶようにひしめき合っている。この男の生は卑小でしみったれたものだ。何ひとつ身につかないまま様々な職を転々とし、妻や娘に酷い仕打ちをつづけ、唯一助けてくれた弟さえも裏切り、小学生の女の子に性的ないたずらさえする、小心者のくせに喧嘩っぱやい堪え性のない男なのだ。人文系の研究者として、そして文学者としても超エリートである松浦氏には、妙な「身をやつす」趣味があって、このような卑小な人物を好んで小説に登場させるのだが、例えば大道珠貴のように、本当にしみったれた人物のしみったれた生を容赦なく描き出すような強さはなく、その卑小さもどこか文学的な趣味によるものでしかないと言えるだろう。(松浦的世界では、常に湿り気が支配し、ものとものとはぬちゃぬちゃと接触するのであって、乾いたもの同士の擦れあうような暴力的な感触は不在である。)松浦氏の小説は、現実のリアルさを描き出そうという野心とは無関係である。それはむしろ、現実的な生々しさよりも「文化的洗練」に向かっていると言える。文化的な洗練の極致でその洗練とともに爛熟し爛れ、腐ってしまいたいという欲望とともにあると言うべきか。(日本という、文化的洗練自体が成り立っていないような場所で、ほとんど一人でそれをやろうとしている感じがある。)だからそこに描かれている男の生が、リアルさというよりも文学的な趣味によって造形されたものでしかないとしても、それを描き出そうとする言葉のあり方、あるいはそのような言葉を生み出してしまう基底として存在する「ある身体」を貫いている欲望のあり方そのものの危うさやヤバさの方がリアルなのだと思う。
現実の生々しさから微妙にズレつづけ、しかし全くの幻想にまでは落ち込んでしまわない、薄皮一枚のようなギリギリの場所を確保しつつ、ふるふるとふるえながら持続してゆく松浦氏の小説を支える「筆さばき」は、『花腐し』くらいまではまだ生硬さが目立ち、理が勝ってしまうところが随所にみられたのだが、単調なもののその都度の新しさとしての「反復」を繰り返しつつ、現在では更なる密度とともに自在さと軽さとを獲得し、小説家として「こなれた」感じが増してきているのだが、この「こなれ」がほとんど「爛れ」と境を接しているところに、松浦氏の小説の醍醐味がある。「鰈」という文字が「魄」という文字に転じ、それが「魂/魄」という対立を召還し、さらに「月魄」という言葉を招きよせ、それが月の光という意味と同時に、月の光のない部分をも意味するということが言われ、そこから「死魄」という言葉まで呼び寄せられるという、まるで漢和辞典をめくりながら着想されたような出来過ぎた展開にしても、男の生の様々な細部のイメージがかなり紋切り型だったり、ポルノグラフィックなものだったり、あるいま今までの松浦氏の小説で何度もお目にかかったような類型的なものであったとしても、それらはこの小説にとって大してマイナスなことではない。松浦氏の小説は、新しい何物かの生産ではなく、腐るほど見慣れたものの、その都度の新たな生起としての「反復」によって生を使い尽くそうとすることで成立しているからだ。(まるでベケットのように、ロブ=グリエのように、小津のように、そして『ゴースト・オブ・マーズ』のカーペンターのように。)このようなあり方は、常に「何か新しいもの」「何か驚くべき事」「何か面白いもの」に対する欲望を強迫的なまでに強いられる高度な消費主義的な社会で生きるしかない、一人の人間の身の処し方として強い有用性を持つだろう。だが勿論、これは一方で、日々否応なく現れてくる世界の「新しさ」に目を瞑り耳を塞ぐことでもあるのだし、またこのようなやり方が可能なのは、既に(文化的、経済的に)ある優位な立場を確保している人に限られる訳なのだが。
●何といっても、このような小説が存在できる場は「文芸誌」の他はないだろう。いかに他の記事が詰まらないとしても、このような小説が時たま載るというだけで「文芸誌」の存在意義は充分だ。例えば「群像」の同じ号に載っていた田中和生という人の『あの「戦場」を越えて』という批評が本当に下らないもので、それを間違って読んでしまってイライラしていたとしても、『鰈』のような小説が読めるのならば、そんなことは取るに足らないと思える。