『渚にて』(ネビル・シュート)

●午後に原稿のゲラを戻した後、『渚にて』(ネビル・シュート)を読み始め、半分ほど(4章まで)読み進んで、はやく読んでしまうのはもったいないので、中断してこの日記を書き始めた。この小説は五十年代の古いSFなのだけど、興味をもったのは「ユリイカ」の吉田健一特集で丹生谷貴志が書いていた文章でこの小説について触れている部分を読んたからで、読んだ後すぐ古本屋で探して、買って持っていたのだけど、今まで読む機会が延びてしまっていた。しかし本当に、読んでしまうのがもったいないというような、すばらしく魅力的な小説だ。
舞台は六十年代始め、戦争で人類のほとんどが死に絶えてしまった後、オーストラリアでのみ人々が生き残っている。オーストラリアでは戦争の影響はほとんどなく、というか、世界がなぜこんなことになってしまったのかわからないままぽつんと取り残された感じで生き残っていて、石油などの資源の調達が出来ないので、車ははしらず、飛行機も飛ばす、ただ、人々が普通に生活してゆける程度の電力は、石炭などによって何とかまかなわれている。電車ははしっているが、人々は駅までの道のりを、自転車か、さもなければ馬車や牛車に乗って移動する。そして、戦争の影響で地球全体を覆う放射能は、多少の誤差はあるだろうが、一年後には確実に残された地域にも訪れ、人類は死に絶えるだろう、とされる。この小説は、SF的な意匠やアイデアによって読ませるのではなく、確実にやってくる最後を前にして、それでも淡々と生きる人たちの生活が、ある意味退屈なほど穏やかな筆致で描かれる。おそらくこんなことは実際にはあり得ないだろうが、人々は確実にやってくる最後を目の前にし、その事実を受け入れつつも、冷静に普通の生活をつづけている。
しかしもちろん、このような状況では、普通であることが常に「軽い狂気」を含んでいる。牧場主は、決してやってこない来年のために牧草を整える仕事をやめないし、アメリカ人の将校は、国に残してきた(つまりもう生きていることはあり得ない)子供の成長に思いをめぐらし、長く離れていることを家族に対して申し訳ないと感じている。(この将校は、国に妻子を「残している」という理由から、知り合った魅力的な女性との関係の進展を抑制している。)若い夫婦は子供の成長を見守りつつ、その妻は来年咲く花の種を、庭に蒔くことを考えている。ここでは(誰でもが安易に考えるような)「終わり」を前にしたやけくその暴動などはその気配さえまったく描かれず(しかし例えば、快活で魅力的な若い女性の登場人物は、日常的なアルコールの接種をやめることが出来ず、誰もそれをやめろと言うことも出来ない、という程度には「最後」は重たく意識されている)、ただ人々は、確実にやってくる最後を知性としては受け入れつつ、どこか信じられないという戸惑いの感触をもち、また、それによって日常が辛うじて維持されている様がある。それは決して「最後」を(現実を)みたくないためにそれを心理的に強く拒否しているのとも違って、例えば軍人たちは、ハードな指令を受けて「この作戦は末代までの語りぐさになるに違いない」などというジョークを飛ばしたりする程度に、自分たちの置かれた状況をクールに捉えることが出来ている。この小説の魅力は、淡々とつづいている普通の生活の裏側に常に影を落とす「最後」の濃い気配であり、そこからくるそれぞれの人たちの抱える「軽い狂気」の感触であり、しかしその「軽い狂気」有り様さえも、それぞれの人によって意識され、(その狂気を受け入れた上で)クールに処理されているという知的な感覚であろう。それが、とてもデリケートで抑制された生活の描写によって描かれているのだ。(井上勇による、古くさく野暮ったい訳文がまた素晴らしいのだが。)
勿論、実際にこんな状況になった時に、こんなにも知的で抑制された行動をとる人々ばかりだなんてことはあり得ない。自分を含めた人間が、そんなに立派ではないことを我々は嫌という程知っている。だからこんなものは夢物語だし絵に描いた餅だと言えるかもしれない。しかしだからこそ、この小説のフィクションとしての抑制された「上品さ」は、とても貴重なものだと思う。(軍人たちが潜水艦のなかで、残された数少ない資料から戦争の成り行きを推測する時の会話など、本当に「上品」で素晴らしいのだ。)