●神代辰巳の『赫い髪の女』をビデオで。映画が始まってすぐの、工事現場での特異な縦の構図の切り返しと、石橋蓮司と阿藤海が女の子(亜湖)を「まわし」にかけるシーンとが交錯する場面で、もうこの映画が凄い作品であることが理解できるだろう。この素晴らしい2つの場面の交錯によって、神代的な3人関係とでも言える関係が的確に示される。石橋と阿藤は「女」を共有し互いの「マラ」をさぐり合うような「朋輩」関係であり、共有された(まわされた)女はいつの間にか阿藤に弁当を届けるような関係になっている(感情をもっている)。それだけでなくこの3人が住んでいる世界の、労働の現場での階級関係も描きだされる。しかしこの映画は、そのような3人の関係に沿って展開してゆくのではない。一方に石橋と「拾った女」である宮下順子との密室のなかでの果てしない性愛があり、それと呼応するサブ・テーマのように、阿藤と亜湖との関係が描かれる、という風に分岐してゆく。二組のカップルの性愛は、一見密室の内部で行われる、外とは遮断された「2人だけ」の関係のように見えもするが、しかし実はそのようなふたりだけの関係などありえず、2人の関係は最初からその外側を含んだものとしてしか成立しはしない。阿藤と亜湖との関係は、石橋と阿藤の共謀による「まわし」からはじまっているのだし、石橋と阿藤が「女」をも共有する朋輩(ホモソーシャルな関係)である以上、石橋と宮下との関係に阿藤が絡んでくるのは関係の力学上で必然的なことだ。それに、石橋と宮下との2人だけの性愛という場面においても、宮下の元「旦那」によって「仕込まれた」性癖が、2人の性愛のあり方を規定しているのだから、そこには常に不在の「旦那」との関係が生じていると言える。だから、この、果てしなくどこまでも続いてゆくような軟体動物的な性愛のシーンばかりに満たされている映画における性愛というのは、官能的で肉感的な絡まり合い、あるいは実存的な性愛と言うよりも、むしろ機械的な接合のバリエーション、ある条件下でありうべき関係のあり方の機械的な記述に近いものだと言えるだろうと思う。(この映画は中上健次の小説を原作にもつのだから、当然、実存的な性愛のメロドラマなどではなく、関係と階級についての考察にもとづいたドラマである訳だ。)それでも、この映画からはある痛切な感情のようなものが立ちのぼってくるのも確かなのだ。しかしそれは、ある個人=主体における実存の叫びであるというより、機械の接合によって産み出される軋み、関係=機械が作動する時のノイズのようなものであると思う。だいたいこの映画の登場人物たちは皆、人間=個人であると言うよりは、動物=機械(動物はほぼ悟性のみで動く)と言うべき人物ばかりではないだろうか。
この映画での宮下順子を特権的な人物にしているのは、「くぐり抜ける」という動作によるだろう。宮下は、トンネルをくぐり抜けて登場し、走っているトラックの座席をくぐり抜けるようにして外へ出ようとするし、炬燵のなかをくぐり抜けて対面に座る石橋蓮司によりそい、石橋の性器をしゃぶるために頭から蒲団へ潜ってはくぐり抜ける。宮下の身体は好んで狭く息苦しい場所へと入り込んでそこをくぐり抜けようとする。まるで、延々と性交シーンがつづいているこの映画が、しかし実際に男性器が女性器に挿入されるところを決して可視化出来ないということを補うかのように、自らの身体を男性器と化して狭い穴へと入り込もうとでもしているようだ。しかし男性器が入り込もうとする女性器が行き止まりの穴であり、くぐり抜けることが出来ないのに対して、宮下の身体は一度狭い場所へ入り込んだ後に別の場所へと再び出てゆくのだった。このことこそが性器的な結合に対する宮下の身体の優位であり、この映画全編に引き延ばされて持続する性交シーンが、実際の性交に対してもつ優位であるとも言える。この映画は、性交で満ちていると同時に水に満ちていて、ほぼ全編雨によって濡らされている。雨が降り続き土方の現場が成立しない限り、石橋は部屋に籠って宮下と性交をつづけるだろう。しかし、いつまでも止むことなく降り続いているように見える雨もいつかは上がり、石橋は再び労働の現場へと出てゆくだろう。そしてその時、宮下もまた、狭苦しい石橋のアパートの部屋をくぐり抜けて、別の場所にあらわれることになるのだ。ちょうどこの映画の冒頭に、トンネルを抜けてあらわれたように。そしてまた別の場所で、別の関係へと開かれる実験が開始されるのだ。