フロイト/ウィニコット

フロイトだけを読むと、快感原則が支配する原初的な「エデンの園(母子未分化の状態)」を破壊するのは、外からの(現実原則の)暴力的な力、例えば「父」による強い「禁止」(抑圧)のようなものだという風に読めて、つまり父による「禁止」の声によって子供に超自我が形成されるというか、象徴的なものへと参入するという風に感じられてしまうのだが、実際の症例(例えばシュレーバー)が教えるところでは、強過ぎる父はむしろ子供の(象徴的なものへの参入という意味での)「現実」への参加を困難にする。実際、法(象徴的なもの)を機能させるのは、厳密さであるよりも(判例の積み重ねによって事後的・遡行的に補強されつづけるしかないような)曖昧さやいい加減さであり、その曖昧さをなんとなく吸収してくれる(受け止めてくれる)ような「他者」への信頼だろう。
例えばウィニコットによれば、子供を現実と結びつける(頭の中と外とを媒介する)のは「ほぼ良い母親」であるとする。子供が空腹を感じ、母親の乳房を「内的」に表象する時、ちょうどその頃合いを見計らった(子供の欲望を先取りしている)母親が、乳房を差し出す。この時、子供は母親の配慮によってではなく、自らの「表象(想像)」の力によって乳房が出現したのだと認識していて、つまり「魔術的な世界」の全能感のなかにいる。しかし母親は、子供の欲望と完璧に同調することは出来ないので、子供が内的に「表象すること」と、実際に乳房が「差し出されること」の間には微妙なズレが存在する。この、くり返し現れる乳房(による安定感)と、そこに常に差し挟まれるズレ(による予測不能性)によって、子供は徐々に魔術的な全能感から離脱し、(頭の外にあるもの、内的な表象によっては動かないもの、としての)「現実」を認識する。つまり、「現実」とは、ほぼ予測可能であるが(安定した地平があるが)、最終的にどこかで予測不可能な残余が残ってしまう他者たちによって構成された世界、として立ち上がる。だから、人は基本的に「願いは叶う」という感覚を奥底に持っていて(しかもその願いは、未知のなかからや?てくる他者によって叶えられると、期待されていて)、しかし、場合によっては「叶わないこともあり得る」という形で現実を少しずつ受け入れる。この、反復によって可能になるゆっくりした過程を強過ぎる父の禁止の声が性急に断ち切ると、子供(主体)にとって「現実」は安定性(予測可能性)と能動性(自分がそこに参与している感覚)を欠いた、無秩序で不条理な暴力的な力が吹き荒れる場所となり、象徴的なもののの受容が困難になる。(だからこそこのような時、人は逆に、体系の細部にわたるまでの厳密さを希求し、それによって、意味の成立を可能にしている「意味の最終的な決済を曖昧なまま放置して(未来の)他者に預けること=待機の時間」という弾力性を見失い、つまり「意味」を見失う。)
現実に差し出された乳房が、内的に表象された幻想の乳房と同調しつつも、わずかにズレる。この、主体(子供)にとって制御不能な「ズレ」があること(反復されること)によって、前者(現実の乳房)が後者(幻想の乳房)を「意味する」という、人間に独自の現実認識の過程が生まれる。つまり、後者は前者とは「別のもの」として分離しながらも、連なり、重なりあう。ここで主体(子供)は、ある物が別の何かを意味する(シニフィアン/シニフィエ)といった、隠喩的な作用としての言語(象徴的なもの)の構造を受け入れる素地を得る。ウィニコットは、移行対象としての「毛布」は、(象徴的には)「母親の乳房」を意味するのだが、(現実的、知覚的には)それとは異なるそれ独自の質感を持つ「別のもの(毛布)」である、という二重性(ズレ)こそが重要なのだと書いている(『遊ぶことと現実』)。この二重性が、頭の中(幻想)と頭のの外(現実)とを結びつけ、あるいは、その分離した両者を改めてすり合わせること(頭のなかを現実にあわせてゆくこと)を促進し、あるいは、両者が基本的に分離しているという認識を得ること、そのようになかで生きることを「勇気づけ」る。つまり、人はこのような二重性(ズレ)によって生まれる(頭の中でも外でもない)第三の領域でこそ、生きるのだ、と。ワインがキリストの血だと言う時、人は誰でも、それが葡萄からつくられたものであってキリストの血とは「別のもの」であることを知っているが、しかしにも関わらず、というか、だからこそ、それはキリストの血として「実感される」のだ。(この時、移行対象=シニフィアンとしての毛布にはある程度融通性があり、例えばぬいぐるみなどで代替可能であり、実際に移行対象は様々なものに乗り換えられる事があるが、全く恣意的というわけではなく、例えば立方体の鉄の塊などが代替物となることは考えにくいだろう。)
下等な動物であれば、頭の中と外とは一対一で対応していて、ある刺激に対する認識や反応は予め決められている。そこに揺らぎの余地はなく、確固たる力強さと確信がある。だが人にとっては、その独自の(特異な)現実との関わり方、象徴的なものを介した関わり方を(おそらく、未熟なまま生まれてしまい、かなり大きくなるまで他者にその生存を預けるしかないという生物学的な事実によって)強いられることで、頭の中と外との関係にある程度の可塑性(恣意性、融通性、組み替え可能性)が生じた。この可塑性は、人に生存の可能性の拡大を与えると共に、独自の苦しみを与える。下等な静物において、頭の中と外とのズレはたんに「死」(あるいは死の可能性の増大)を意味するが、あらかじめズレを持ち、そのズレを調整することによって生きる人にとって、そのズレの増大(そして調整不可能性)は、非情に強い苦しさを生む。大切な人物を失った人は、頭の中にはその人物が未だ存在することと、その人物が既に存在しない現実のとズレに苦しむ。もし、頭の中でもその人物がすみやかに死んでくれないとしたら、その苦しさはいつまでもつづくだろう。人が、死んでしまった人物の遺品を見たり触れたりすることで多少でも苦しみを和らげることが出来るとしたら、そこで起こっていることは何なのだろうか。その時、シニフィアンとしての遺品の「意味」は、死んでしまった人物であると言うより、その人物に関するあらゆる記憶であり、おそらくそれだけでなく、その記憶と何かしら関係のある別の記憶の全てでもあり、そのような記憶のネットワークの総体(のもつデリケートな感触)であろう。そこで、遺品という現実的な物質に触れる(知覚する)ことで想起された(意識されたものだけではない)記憶の総体は、けっして現実(頭の外)で起きていることの反映ではないが、しかし全くの幻想(頭の中)というわけでもない。