●イタリアから帰って来て、もう一週間ちかくになるのに、まだイタリアボケが抜けず、日本での現実に着地できていない。道を歩いたり、散歩していたりしても、目の前の風景がそれとして明確には見えてこなくて、どこか焦点がほやけた感じだ。展覧会や映画なども、いくつか観に行ったりしているのだけど、目の前のものを見てるつもりで、別のものを見ているというか、どこか浮ついて、ズレている感じで、すんなりと入ってこない。(しかし本当は、このズレている感じ、身体のなかに残っているイタリアの余韻みたいなものを、簡単に消してしまいたくはないと思っているのだけど。)ただ、明確に、自分が今、東京にいるのだと感じるのは、道の歩きやすさだ。東京の道は歩きやすい。坂道も階段も平坦な道も、アスファルトの道も砂利道も土の道も。二時間でも三時間でも歩いていられて、いくら歩いていてもあまり疲れない。フィレンツェの石畳は歩きづらくて、すぐに足首や股に疲労を感じるし、何日か歩きつづけていると腰にくる。滞在の終盤は腰痛との戦いで、最後の日などは、十分も歩くともう腰が辛くなってきて、どこか座ることの出来る場所を探してしまう状態だった。しかしそうそう座り込んでばかりもいられないので、歩きながら、自分で自分の腰を指圧して、痛みを散らしつつ歩いていた。東京の道が歩きやすいというのは、ぼくの身体がそれに馴染んでいるということで、石畳の道には、それにふさわしい別の歩き方(あるいは筋肉のつき方)があるのだろう。ただ、それを体得するのは一週間ちょっとの滞在ではダメだということだろう。「歩く」という、その多くを無意識のうちに決定されてしまっている行為を通じて、(いくら浮ついていても)お前が住んでいるのは(お前の身体が馴染んでいるのは)他でもない「ここ」なのだという現実を、思い知らされているというわけだ。
フィレンツェはちいさな街で、日本人観光客が多いから、結構頻繁に日本人とすれ違う。街を歩いていると、五分か十分に一組はすれ違うというくらいだ。(ミラノの空港からフィレンツェの空港へ飛ぶ国内便の飛行機など、乗客の半分は日本人という感じだった。)サン・マルコ美術館には二度訪れたのだが、二度目は朝、開館してすぐの時間で客も少なくて、二階の僧房を見て回っている時などは、客はぼくと、日本人の中年の夫婦一組だけだった。こういう場所で、(他に誰もいないなかで)日本人と出会うと、妙に照れくさい感じの距離感で、「こんにちは」とか言って挨拶すべきなのかどうか、互いに探り合っているような空気だった。それはともかく、カネフスキーの『動くな、死ね、甦れ』とか、スピルバーグの『太陽の帝国』とかで、映画の中に日本兵の言葉として日本語が混じると、それが妙に平板なものに聞こえる。これはおそらく、日本人=無表情、日本語=平板というような、クリシェというか記号のようなものなのだろうと思っていた。でも、フィレンツェで、人通りの多い道のざわめきのなかから、不意に日本語の会話が耳に入ってくる時など、映画で聞こえて来たのとまったく同じような、平板な感じで聞こえてくるのだった。(でも、この平板さは結構魅力的だった。)これはおそらく、日本語を言葉としてではなく、音として聞いたということなのだと思う。