●お昼前くらい、父親らしい男性と、四、五歳くらいの女の子と男の子が歩いているのとすれ違う。父親がパンと手をたたき、「そうだ、マグロ丼食べよう、マグロ丼最高じゃん」というと、女の子が「わーい、マクドナルド、マクドナルド」とはしゃいで言った。
●画家にとって、右利きか左利きかということは、けっこう重要な問題だ。それは、例えばハッチングのタッチが、右利きのタッチと左利きのタッチとでは逆になる、というような、結果として出来上がったものの視覚的な違いということではなくて、その人が世界に触れる時にとる、姿勢や動きの癖のようなものと関わるようなことだ。ある画像を、鏡像反転させることは、別にそんなに難しくない(パソコンがあれば、クリック一つで出来るだろう)。でも、人間の身体の運動を鏡像反転させるのは、そんなに簡単ではない。だがそれは、困難ではあっても不可能だということではない。困難であり、脳に多くの負荷をかけるからこそ、それが実現した時、その身体と世界との関係を大きく揺るがすことになるだろう。脳がひっくり返るかのような経験だからこそ、それは世界がひっくり返るかのような経験へとつながる。例えば、あるダンサーがする振り付けが、その後、まったく等しく、しかし鏡像的に反転されるのを見る時、それをただ視覚的な像として見るのならば、パソコン上の鏡像反転の画像を見るのとかわらない経験しか観者に与えないだろう。しかし、それを「する」という立場を多少でも考慮すれば、それはもっと大きな動揺を観者にも経験させることになろう。
ぼくは左利きだが、矯正されたので、文字は右手で書くし、箸は右手でもつ。文字を書くのは左手でも出来るけど、箸は右手でしか持てない。スプーンやフォークは、通常左手で持つ。コーヒーカップを持つのは、無意識であれば、六四か七三くらいで左手が多いだろう。絵を描く時は、主に左手だ。文字を書く時の「自然」は右手で書くことだが、筆やペンを持つ時の「自然」は左手で持つことだ。だから、文字を書こうとする時、まず、手が自然に左手でペンを持とうとするのを意識的に右手に持ち替えて書くことになる。しかし「書く」に関しては右手が自然なのだ。左手でも文字を書くことは出来るが、文字は本来、そのかたちや書き順が右手で書くために出来ている。だから、左手で文字を書く時、齟齬が生まれ、書き順はメチャクチャになる。文字のかたちは通常、視覚的なかたちとして記憶しているというよりも、手の動きのかたちとして記憶しているから、左手で文字を書く時、その動きとしてのかたちをいったん視覚的なかたちへと置き換えてから「書く」ことになる(だから、左手で文字を書くときは、鏡文字が容易に書ける)。とはいえ、「線を引く」という動きに関しては、左手の方が自然であり、よりコントロールしやすい。たんに、字を書くというような動作ですら、このような複雑な内実-過程があり、右手で書くことと、左手で書くこととは、単純な鏡像反転という操作によって移行できるわけではない。
イチローは右投げ左打ちで、つまり、右投げは先天的なものだが、左打ちは後天的なトレーニングによってつくりだされたものだ。スイッチヒッターとか、右利きの人が左打ちするという例はよくあるけど、スイッチピッチャーとか、もともと右利きのピッチャーが左投げに転向するという例は聞いたことがない。これはおそらく、打つという行為-運動の方が、投げるという行為-運動よりも鏡像反転がしやすいということを意味しているのだと思われる(たんに筋力とかの問題であれば、いくらでも後天的なトレーニングによってつくることが出来るはずだろう)。つまり、投げるという行為-運動を意識的に組織化する時、その根源(基礎)となる感覚が、先天的、あるいは生まれてからごく初期の段階に刻み付けられた世界との接触のやり方(癖)に、大きく依存するものだ、ということではないか。プロスポーツの選手のように、高度な身体的制御を実現している人たちであれば、「かたち」として右投げから左投げへとスイッチすることそれ自体は、意識的な練習によって充分に可能であるだろう。しかし、右利きの人が左投げをかたちとしてマスターしたとしても、どうしても、右利きが右投げする(左利きが左投げする)のと同等の「精度」を感覚的に掴むことが困難だ、ということなのだと思われる(まあ、右打者に対して左打者は一塁ベースに一歩近いから明らかに有利だけど、右投手に対して左投手は、そんなに絶対的に有利だということはない、ということもあるだろうけど)。そこには、どうしてもある、身体が世界へと関わる時の、根源的な非対称性がうかびあがる。