●昨日の日記を書いていて思ったのだが、「占い」というのは「宇宙人好き系」と「幽霊好き系」が交錯する、とても興味深い領域なのではないか。占いの体系そのものは、個人の感情や欲望、記憶などとは切り離された、世界の自動的な運行の法則の追求のようなもので、だからそれは、天体の運行などと重ねられる。だから、その体系そのものの追求は、超越的なもの、超俗的なものであり、個人の現世的な利害とは無関係に世界の真理としてある法則の追求としてある。これは、きわめて「宇宙人好き系」的な探求であろう。
しかし実際のところ、占いを必要とし、占いを信じる人々が欲するのは、多くの場合そのような体系ではなく、自分自身と世界との関係において起きる、自分と世界の軋轢の調整であろう。それはあくまで、自分のまわりに起こる、世界の不可解さや理不尽さを、自分の感情や記憶としてどのように受け止めるのか、ということに関わっている。これはきわめて「幽霊好き系」的な、フェノメナルな世界のあらわれと関わっている。しかし、占いの「体系」そのものが示す世界の法則には、そのなかで生きてゆかなければならない個人の「感情(や記憶)」は記載されていない。だが、占いを必要とする人は、「体系(真理)」を必要としているわけではない。
そして、この、本来切り離された二つの系列を媒介し、交錯させるのが「占い師」という存在であり、そのカリスマであり、キャラクターであり、パフォーマンスであろう。占い師は、占いの体系そのものを追求する学者(求道者)ではない。占い師は、その行為の遂行(パフォーマンス)によって、体系と感情(記憶)とを架橋する者だ。すぐれた占い師のもつパフォーマンスの能力は、体系に裏打ちされつつも、体系(真理)によっては保証されない。まさに、その場その場での、一回限りの行為の「冴え」のなかにしか「占い師」の場所はない。その「冴え」によって、「宇宙人好き系」と「幽霊好き系」とが交錯可能な場が開かれる。それは必然的に、正当性という「いいわけ」がきかない「いかがわしいもの」となる。