●昨日、話している最中にIさんが鞄からさっと紙片を取り出して、サラサラッとメモをとるのを横で見ていて、ああ、メモっていうのはこういう風にとるものなのかと感心した。以前Iさんと話した時に、テレビ番組の感想を、手帖でそれを観た日付を確認しながら話していたのを思い出す。ぼくにはメモをとるという習慣がなく、大事なことはだいたい一度聞けば覚えているだろうという妙な思い込みがあり、学生の時もあまりノートをとることはしなかった。授業なんか一度聞けばだいたい憶える、みたいな。それで成績が良ければすごく頭がいいということになるのだが、そんなことはなかったのだが(ていうか、ボロボロだった)。それでも無事に卒業出来る程度にはなんとかなった。でも最近、その記憶力がすごくあやしい。当然憶えているだろうと思ったことが後から思い返すと真っ白だったりすることがよくあるし、特に数字は、その場で何度か確認して憶えたと思ったのに、後から思い出した数字にすごく自信がなかったりするようになった。一応思い出しはするのだが、その数字が根拠のないいい加減なものに思えてくるのだ。何度か確認するよりも、サッとノートを取り出して書きつけてしまった方がいいに決まっている。でもぼくには、話の最中に、あっ、ちょっと待って、とか言ってメモを取り出し、えーっと、27日の…、とか書き付けるという行為に対して、どうしても「はばかられる」という感じが強く働いてしまう。ぼくにはどうも、人の話に割って入るとかもそうなのだが、その場の流れを、自分の能動的な行為によって中断させるということに対する、ちょっと異常なくらいの無駄な遠慮の感覚があるらしくて、そういう行為がとても困難だ。これは他者や場への配慮などではなく、ごく個人的な、病的な悪癖でしかなくて、そもそも、メモを取るということくらいでそんな大袈裟な、という話なのだが、そのタイミングというのがよく分からない。(統合失調症の人はリズムがとれない、という話をなんとなく思い出す。)
本に、傍線を引いたり、書き込みをしたり、付箋を貼ったりすることを憶えたのは、ほんのここ一、二年くらいだ。それまでは、本のページに何か自分の痕跡を刻んでしまうということに対する「はばかられる」という感情が強く働いていて(それは、他人が描いた絵に、勝手に自分が手を入れてしまうような感覚だ)、そうすることが出来なかった。はじめのうちは、ものすごく抵抗感があった。だが今では、読んだ本は文字や図や絵で埋め尽くされるようになった。ノートをとるのではなく、「そこ」に書き込むことで、頭に直接刻み込み、頭を組み替えているような感覚もある。それが抵抗無く出来るようになったのは、雑誌などに書評や批評を書くようになって必要に迫られたということもあるけど、何よりも自分の記憶に自信がなくなってきたからなのだ。だから、「メモを取る」という習慣も、「はばかられる」という感情を打ち破って、これから努力して身につけるようにしたい。
●これは、この日記にも書いていないし、今まで誰にも話したことがないことで、昨日の食事の時に忌野清志郎の話になった時にもやはり言えなかったことなのだが、ぼくは、忌野清志郎が亡くなってからしばらく、ネットカフェに通って、そこで長時間粘って、いろいろとRCサクセションや清志郎関係の動画を観まくっていた。それに、一人で密かに何度もカラオケに行って、自分で(キー下げまくりで)歌ってみたりもしていた。それはぼくが「隠れ清志郎ファン」だからではなく、むしろ逆で、その「良さ」がぼくにはどうしてもよく理解出来ないという思いからだった。決して嫌いな訳ではなく(嫌いだったらそんなことするはずはない)、ただ、ぼくには清志郎に限らず「ロック」というものについて、その核心にある「何か」が、どうしてもよく掴めないという感覚があり、それをなんとか掴めないだろうかという思いからなのだった。それで「掴めた」のかと言えば、やはり掴めないというしかなくて、ぼくが清志郎の曲で一番好きなのが「い・け・な・い・ルージュマジック」であることからも、それは明らかだと思うのだ。