●今日は、友人の画家夫婦宅の引っ越しの手伝い。まずしょっぱなから、待ち合わせの場所を間違える。国立で待ち合わせなのに国分寺まで行ってしまう。中央線沿線に住んで二十年以上なのに、まだ時々国立と国分寺を混同すのというのはどういうことなのか。しかも、その友人が国立に住んでいると知っていて間違えるのだ。幸い、間違いに気づいてすぐに下り電車があったので、遅刻は十分程度で済んだ。友人のアパートは、国立駅からほど近い緑の多い閑静な高台にあり、中央線の線路を電車の音が気にならない程度の距離をもって見下ろせる、とてもよい立地にある。
引っ越しには、六十年代終わりから七十年代半ば頃までに生まれた世代の錚々たるアーティストたちがあつめられた。六十年代生まれはぼくだけだが。実際これは、かなりすごい顔ぶれではないだろうか。このメンバーが集まって、ひたすら物を運ぶのだ。美術家の生活はどうしても物が過剰になる。とはいえ、それにしても、これだけの荷物が、それほど広いとは思えない間取りのアパートにどうやって納められていたのかと驚くほど、物は次々と部屋の奥から沸き出すように出てくる。友人の部屋はアパートの二階にあり、部屋から荷物を運び出し、アパートの外階段で下まで降りて、アパートの中庭を通って外へ出て左折し、しばらく行ってまた階段を上って、その上に駐車されているレンタカーのハイエースに荷物を積み込む。坂道の途中にあるアパートなので、すく前に車をつけることが出来ない。何度も何度も行ったり来たりしていると、荷物の重さそのものよりも、階段の上り下りがじわじわと効いてくる。腰にくる。ハイエースに荷物がみっしりと詰め込まれこれ以上物が入らなくなると、もとの部屋での作業はいったん休止して、荷物を乗せて引っ越し先へ向かうのだった。限られた車内の空間に、いかに多くの物を効率よく配置して詰め込むことが出来るのかということは、美術家としての腕のみせどころでもあるのだった。運転手は茨城から駆けつけた。美術家は、車も免許も持っていない率がとても高い。だからこそ数少ない「持っている人」は皆、都合がつく限り献身的に自らの技能を提供する。実際、もうそんなに若くはないのだから、それぞれの事情や都合もいろいろあるだろうと思われるのに、だ。こういう時には、ああ、美術ってすばらしいなあと、素直に思うのだった。
引っ越し先はさらによい立地のマンションで、五階建てのマンションの最上階の一番奥の角部屋で、マンションのすぐ前が玉川上水で、部屋の窓からは富士山が大きくくっきりと見えるし、裏側には神社があるらしく、ベランダ側の開け放したままの窓からは、ずっと祭りのお囃子の音が聞こえつづけていた。緑の多い静かな町並みで、それでも最寄り駅まで歩いて十分程度だというのだ。マンションの建物自体は、それなりに年季の入ったものではあるが、こんなにいい物件をいったいどうやってみつけてくるのだろうか。
マンションの前の駐車場に停められたハイエースから荷物を下ろし、それをエレベーターの前まで運ぶ班と、荷物をエレベーターに乗せて五階まで運び、それを下ろす班と、エレベーター前の荷物を一番奥にある部屋のなかにまで運ぶ班とに分かれて作業が行われる。ここでは階段の上り下りはないものの、腰を曲げて荷物を持ち上げ、腰を曲げて荷物を下ろすという行為の頻度は引っ越し前のもと部屋での作業より高くなり、さらに腰に響いてくるのだった。そしてハイエースが空になり、荷物が部屋に納められると、また再びもとの部屋へと戻って、荷物の積み出し作業になるのだった。
とめどもなく荷物がわき出てくる部屋から荷物を運び出し、車に積み、車から降ろし、部屋へ運び込むという、いつ果てるともしれない行為の反復は、途切れることなく延々と続いた。一度、昼食のために休息をとった後に、目に見えて作業の効率が落ちたので、下手に休むよりもつづけた方がいいと、皆が暗黙のうちに理解していた。何もない時にはなんて広いんだと思った新しい部屋も、すぐに荷物で足の踏み場もないくらいになった。雨が降らなかったのは良かったが(もし雨だったら悲惨だっただろう)、気温が高く汗だくとなるので、水分を常に補給しながらの作業となり、多量のペットボトルがゴミとして出た。朝の九時頃からはじめられた作業は、夜の七時過ぎまでつづいて、ようやく終了した。祭り囃子はとっくに終わっていた。ハイエースは、前の部屋と次の部屋との間を四往復した。夕方過ぎになると、昼食をとった後のまったりとした時間が、とても遠い過去であるかのように思われた。作業をしながら、自分の年齢のことを何度も思い知らされた。終わった後、夕食をごちそうしてもらった時にビールを飲んだら、その場で寝そうになった。二、三日後には、全身筋肉痛でまったく動けなくなりそうな気がする。