●うすうす勘づいてはいたのだが、そうじゃないといいなあという願望によって見えないことにしておいた事を、他人から指摘されることであっさりと納得出来るということがある。「いや、ぼくもそう思ってはいたんだけど」って、だったらはじめからそうしとけよ、ということなのだが、「前からそう思っていた」ということも確かに事実なのだとしても、そう言われて初めて、「そういえば、前からそう思っていたのだ」ということに気づくということが、ままあるのだ。人間の頭が自分を正統化しようとするシステムは複雑だから、気をつけないとすぐ騙されてしまう。勿論その複雑さはそもそも、「自分を騙す」ために必要な複雑さなのだから当然なのだが。騙されているから生きてゆけるっていうこともあるし。
●今日は完璧なくらいにいい陽気で、今日の散歩は完璧なくらいに幸福だった。
●要するに風景というのは、地形とものと大気と光なのだ。地形とものの配置によって構造が決定され、もののテクスチャーがそれに加わり、光がそれを可視化し、大気が全体を包む。
●そしてそこに人間が加わる。よい陽気の休日(今日が体育の日だということを、迷惑メールで知った)なので、公園という公園、空き地という空き地で、子ども連れの親たちが子どもと遊んでいた。その光景はやはり完璧なくらい幸福なものだ。勿論、個々の家庭にはそれぞれ問題があったりするのだろうが、そういうこととは別に、この光景それ自体は完璧なくらいに幸福だ。その幸福さは、ぼく自身がその光景の一部ではないことなど、たいした問題ではないようにさえ思えるくらいのものだ。
●デジカメで風景を静止画を撮る時、そこに人間がいるのは余計な気がする。都市部や繁華街などでは、人間もまた「もの」としての風景の一部なので気にならないが、そうではない場所では、住宅街を撮る時でさえ、人がいるのは余計であるように感じる。余計というのは言い過ぎだとしても、過剰なものであるというくらいには感じられる。しかし、動画を撮ろうとする時は、ついついカメラを人がいる方へと向けてしまう。それはたんに、フレームのなかに「動くもの」が欲しいということなのだが、それは、人が「時間のなか」に住むものだということも意味しているようにも思う。いや、風景だって時間のなかにあるもので、時間とともに変化するし、特に光などは刻一刻と変わっていて、撮ろうと思ってからカメラを起動させるまでの間に変化してしまってがっかりすることさえある。しかし、風景が時間とともにあるということと、人が時間のなかにあるということはとは、そのあり方がちょっとちがうように感じられる。動画には、その違いが写る気がする。それは、普段からそう感じているということではなく、カメラを持って歩いている時にだけ、そう感じるのだ。人と風景の時間との関係の違いはカメラという装置を通すことで感じられる。
●動画は、静止画以上にこの世界から切り離されているように感じられる。静止画は、固定され、持続するイメージだが、動画は、反復される時間だ。ほんのわずかな、小さな時間が、この世界の本流から分岐し、分離する。静止画は幽霊を写し込む(捉える、内包する)が、動画はそれ自体が幽霊であるというような感じ。
●「未明の闘争」を読んでいる時、ぼくは池袋に親しみがないので、グーグルで地図を呼び出してそれを見ながら読もうかとも思ったのだが、いや、それはダメなのではないかと思い直した。まず、池袋を知らないのなら、知らない状態で読むべきではないか、と。そしてその後、現実上の土地を参照するのなら、(十分に行ける距離にある場所なので)まず実際に行ってみることが先ではないか、と。地図は最後だろう、と。これは、地図を参照することが重要ではないということではない。これはたんに、「見通しの利かない順番」にすぎない。最初に見通しの利く地図で参照してしまうと、二度と「見通しの利かない状態」には戻れないから、見通しの利かない方から順番に経験しておこう、ということだ。どのレベルの経験が最も重要なのかということが問題なのではない。問題なのは、互いに別々に切り離されていて、しかし、互いに参照可能なt関係にある、複数の質のことなる経験(形式)の間に、どのような関係のネットワークをつくることが出来るのか、という点にあるのだ。