●次の時間の体育、かったるいからサボるべえ(「べえ」は神奈川方言)、と思って、着替えもせずにそのまま教室に残り、ぼんやりと窓から、グランドを走る同級生たちを見ているうちに、でも、今年はいくらなんでも体育サボりすぎで、これじゃあ単位とれないかも、と思うだが、ここまでサボりつづけていると、どの面さげて体育教師の前に出ればいいのか分からず、サボるというよりもむしろ、体育の授業に出たくても出られない、出るきっかけをみつけられない、出入り禁止になったかのような気持ちになって、グランドでサッカーなんかをやっている同級生たちが逆にうらやましく思え、やべえやべえと、どんどん追い詰められた感じになるという夢を、四十過ぎた今でもしばしば見る。実際には、水泳と長距離走以外は、体育はけっして嫌いではなかった。あと、これとほぼ同じ、美術バージョンもあって、ずっと美術をサボりつづけていて、課題がまったく進んでいないので、こんな状態では、美術の授業に出たくても出られない、という夢。どちらも設定は高校。
●三つ平行してしていることのうちの一つがすごく低調。低調なのはぼくの方ではなく「向こう」なのだから、どうしようもない。勉強している人の不自由と、勉強しない人の不自由がある。どちらもものすごく何かにとらわれているように感じられる。でも本来、勉強は「とらわれなくなる」ためにこそ必要なのだと思う。