●吉祥寺の古本屋「百年」での展覧会、「線と色と支持体」は四月五日までで、残りあと一週間となりました(http://100hyakunen.com/?mode=f3)。御高覧お願いいたします。なお、「百年」は火曜日はお休みです。
「線と色と支持体」について(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20100322)。
●『ポニョはこうして生まれた--宮崎駿の思考過程』で、宮崎駿は作画監督に対して、手が憶えている上手な線やなめらかな形を描くなとしきりに言っていた。微妙な線の逡巡や形の歪みに人の目は惹きつけられるのだと言って、自分でキャラクターの顔を描いて、その違いを示していた。そしてそのような上手ではない線を引くためには、頭の普段使っていないところを使わなくてはならない、と。「ポニョ」の基本的なコンセプトは、線や形を単純にして、そのかわり作画の枚数を増やして徹底的に絵を「動かす」ことで見せるということで、その時、ただ絵を単純にするだけでなく、単純な絵で映画を成り立たせるために、なめらかではない線や形が必要だと考えているようだった。実際、延々とつづくイメージボードづくりで、宮崎駿は、どうやって上手ではない絵を描くのか、どのような絵なら成り立つのか、あるいは、本当にこのような方向で映画が成り立つのか、を探っているようだった。いや、探っているというよりも、もう既に方向は決まっているのだが、最後の踏ん切りというか、成功しようが失敗しようが「これで行くのだ」という確信や勇気が自分のところにやってくるのを待っているという感じだった。
詳細に描き込んだ高密度な画面ではなく、(パターンとしては認識出来ない)ちょっとした線の逡巡や予測不能な歪みが見せる、認識として処理し切れない余剰のようなものによって画面を豊かにしてゆくこと。それは、目に見えるものとしての情報量を多くして密度をつくるのではなく、半ば「目に見えない(認識できない)」ものの密度を増してゆくということだ。そのような時、逡巡や歪みが、パターンとして認識出来てしまうような単調なものになったとたんに、つまらないものになってしまう。だから常に、観る人のパターン認識力を裏切って逡巡したり歪んだりしていなければならず、それはまず何より、それを描いている自分自身のパターン認識を常に裏切りつづける必要がある。頭の普段使っていないところを使う、というのはそういうことだろう。
「ポニョ」はとにかく動いている映画で、画面の隅々まであらゆるものが動いていて、しかもそれぞれに異なったパターン、速度、リズムで動いているというとんでもないことになっているのだが、「動き」というのもまた、見えているのに見えないというか、見えているのに掴めないもので、それもやはり「高画質」とは異なる方向の行き方だと思う。「動く」と言っても、それはあくまで一秒に二十四コマ(三十コマ?)の手描きのアニメーションなのだから、高速度カメラでコマ数を増やして動きをなめらかにする(あるいは一秒を何千コマに分割するとか)というような「高画質」の方向とは異なるだろう。ここでもまた、高解像度へ向かうのではなく、人のパターン認識力を超えてゆく、つまり知覚を超えてゆくことが問題になっている。考えてみれば、アニメーションというのは動かない絵に動きを作り出してゆくもので、動いているものを複数の静止画(コマ)へと分割してゆく映画の実写カメラとはまったく逆のことをしているのだなあ、と思った。
「ポニョ」では、手描きであることが強調されているのだが、ここにあるのはCG対手描きという対立ではなく、3Dに対する2Dの優位こそが強調されているのだと思う。宮崎駿にとっては、二次元であることこそがリアルなのだと思う(『千と千尋の神隠し』などのマニエリスム的な作品ではそのことを見失いかけているように感じられる)。なぜ二次元こそがリアルなのかということは、おそらくすべての絵描きにとって共通の大きな問題であるように思える。