●新宿のジュンク堂に、「〈イメージ〉の現在」(門林岳史・田中純港千尋)というトーク・イベントを聞きに行った。すごく面白かった。予想していたよりもずっと。
「SITE ZERO/ZERO SITE」(http://site-zero.net/)の新しいやつが面白そうだったから(パラパラ見ただけで、まだちゃんと読んでないので面白「そう」なのだが)出かけたのだが、とはいえ、基本的にヴァナキュラーではあり得ないはずのアカデミズムの人が、ヴァナキュラーなイメージを対象とする(それをネタにする)ということに対する根本的な不信のようなものはどうしてもあるし(それはアカデミズムによる、ヴァナキュラーなものに対する、支配とまでは言わないにしろ、搾取ではあるのではないか、とか)、また、そのような言説はどうせ、ある種の「アート作品」を価値付け、正当化するために政治的に使われるに決まっていると思うと、ひたすらげんなりもするのだ。
だが、事前にあったそのような不信感は、田中純による、「ヴァナキュラーな言語というものがあるのではなく、言語のヴァナキュラーな使用というものがあるのだ、その点においてヴァナキュラーなものを考えたい」というような発言によって、かなりの部分が消失した。それはつまり、「ヴァナキュラーなイメージ」という「対象」そのものが問題なのではなく、イメージが生成される、あるいはイメージを生成する根源的な「力」が発現する現場として、「そこ」を捉えるために、ヴァナキュラーなものをみる必要がある、ということだろう。そして、その点において、ヴァナキュラーなイメージについて考えることが、真逆であるかのような(考古学・認知科学脳科学などの今日的な発展によって可能になった)イメージの人類学とでもいうべき流れと交錯するという展望も、とても納得出来る。いや、納得出来るというより、興奮させれらた。
中沢新一は「SITE ZERO/ZERO SITE」に載っているインタビューで、今までホモ・サピエンスの登場は三、四万年前とされていたけど、最近の南アフリカでの発掘の成果では、十七万年前くらいにまで遡ることができるのだと言っている。すくなくとも十万年くらい前には確実に、現在の人間とほぼ同じDNAをもち、脳のスペックをもった人類が存在していたという。脳のスペックに違いがないのであれば、彼らの見ていた(彼らが生成する)イメージと、今日の我々が見ている(生成する)イメージとの間に、(メディアやテクノロジーの違いを超えて)本質的な違いはないはずだ、と。この点によって、例えば、洞窟画と映画との間に共通しているイメージの生成について語る、というような大きなパースペクティブを開かれる。
ヴァナキュラーなイメージへの注目が、ハイ・アートによって生まれる高級なイメージに対抗(抵抗)するものとして、あるいは、モダニズム的な言説への批判として、ある種のオルタナティブとして提出されるとき、その言説はうんざりするほど退屈なところにしか帰着しないだろう(その危険は常にある気がするけど)。そうではなく、むしろ、より普遍的なイメージの生成の原理と結びつけられる時、そこに何かが開かれるのではないかという予感は感じられる(例えば『建築と日常』のインタビューで岡崎乾二郎が「写真」と「建築」の共通性について語っている部分など、そのひとつの重要な実践であるように思う)。それが、たんに神話的な遡行としてではなく、今日的な科学の成果、考古学的発見、認知科学脳科学の成果と、イメージや神話的なものの分析とが交錯することによって可能になるものであることが重要であろう。
でもそれは必然的に、半ば科学であり、半ば物語であるような胡散臭いもの(精神分析のような ! )となることも避けられない気がする。でも、胡散臭さを怖れる必要もない思う。
●話を聞いていて、港千尋の『洞窟へ』も是非読みたいと思ったけど、それよりも、若林奮の(ほとんど解読不能のような)テキストをじっくり読み返したいと思った。