●自分を積極的に変えてくという風に出来る人はむしろ、強固な自己イメージをもっているというか、いくら変わっても(中身は入れ替わってもその器である)「わたし」は揺るがないという強力な(優秀な)ホメオスタシス能力のようなものをもっているのではないかと思う(変われば変わるほど変わらない、というような)。他方、砂山が崩れるように常に自分が崩れ、砂丘の模様のようにとりとめなく移ろってしまっているようなものとして「わたし」を感じている人は、その寄る辺なさのなかで変わらない何かというような、「わたし」を繋ぎとめる錨のようなもの(ある「深さ」のようなもの)を必要としているのではないか。砂丘の崩れをホウキとチリトリで回収しようとするような寄る辺なさのなかで、たとえネガティブなものへの固着という形であっても「わたし」を支える求心性のようなものが必要だ、と。それは、変化が、自分を変えるという能動感として「わたし」という場に現れているか、自分が崩れて(壊れて)ゆくという受動感として「わたし」に現れているかの違いなのかもしれない。あるいは、変化が喜びを伴ってあらわれるか苦痛を伴ってあらわれるかの違い。それでもなお、砂山のようにとりとめなく崩れ続けるものとしての「わたし」を肯定しようと「言う」ことはできる。「言う」ことならできるのだけど。
●優秀なホメオスタシス能力をもった人が、常に自身を外に晒しつつ自分を新たなものとして更新し続けてゆくことは立派なことだが、それと、社会が人に外側から恒常的に最適化やアップデートを強いるような、いわゆる「変わらなきゃ(生き残れない)」的なイデオロギーとは全然別のことだ。別のことではあるのだけど、前者の姿(適応)はしばしば後者のモデルとして、あるいそのは正当化の道具として、使われてしまう。