2021-06-25

●熱、エントロピー、統計、時間の方向。下のような文章を読むと、確率や統計では実在(このモノの特異性)はとらえられないという考え方が、いかに信用できないかものかと思ってしまう。むしろ、統計こそが実在(という概念)を可能にしているのではないか。以下、カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(この邦題はどうかと思うが)、第一部、第二章「時間には方向がない」から引用。

《熱による運動にはトランプのシャッフルを繰り返すのと似たところがある。順序よく並んでいるカードも、シャッフルすると順序が崩れる。こうして熱は熱いところから冷たいところに移るのであって、その逆は決して起きない。》

《(…)もしも一枚目から二六枚目までのカードがすべて赤で、その後の二六枚がすべて黒なら、そのカードの並びは「特別」、つまり秩序立っていることになる。今、カードをシャッフルすると、この秩序はなくなる。最初の並びは「エントロピーが低い」配置なのである。ただし、元々の配列が特別なのは、赤と黒というカードの色に注目したからだ。色に着目するから特別なのだ。このほかに、たとえば最初から二六枚のカードがすべてハートとスペードでも、特別な配置だといえる。あるいは二六枚目まですべてが奇数だったり、ぼろぼろなカードばかりだったり、三日前とまったく同じ二六枚だったり……または何かほかの特徴があったり。だがよくよく考えると、どの配置も唯一無二になる。》

《(…)あらゆるカードをとことん細かく区別していくと、すべての配置が同等になり、どれをとってもほかより特別とはいえなくなる。「特別」という概念は、宇宙を近似的なぼんやりした見方で眺めたときに、はじめて生まれるものなのだ。》

《ボルツマンは、わたしたちが世界を曖昧な形で記述するからこそエントロピーが存在するということを示した。エントロピーが、じつは互いに異なっているのに、わたしたちのぼやけた視界ではその違いがわからないような配列の数〔状態数〕を表す量であることを証明したのだ。つまり、熱という概念やエントロピーという概念や過去のエントロピーのほうが低いという見方は、自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだ。》

《しかしこうなると、過去と未来の違いは、結局のところこのぼやけ(粗視化)と深く結びついているわけで……。今かりにこの世界の詳細、ミクロなレベルでの正確な状態をすべて考慮に入れることができたら、時間の流れの特徴とされるものは消えるのだろうか。》

《消える。事物のミクロな状態を観察すると、過去と未来の違いは消えてしまう。》

《熱々のお茶のカップに冷たいティースプーンを入れたときに起こることが、わたしの観点が曖昧かどうかによって違ってくるというのではない。スプーンとその分子に起きることが、こちらの観点といっさい無縁なのは明らかだ。どこからどう見ようと、何かが起きる。ただそれだけ。重要なのは、熱、温度、お茶からスプーンへの熱の移動といった概念を使って記述すると、実際に起きていることを曖昧に見ることになるという点なのだ。そして、このような曖昧な見方をしたときにだけ、過去と未来が明確に異なるものとして立ち現れる。》

相対性理論は、「同時」という概念を相対化し、絶対的な「現在」があり得ないことを示した(だから、「現在」という界面が「新しさ」を生み出し続けると考えたベルクソンアインシュタインを批判した)。しかしもう一方で、「この宇宙(この宇宙が唯一の宇宙とは限らないので「この」をつけた)」が誕生してから約138億年経っていると物理学者は言う。この二つはどう折り合いがつくのかと疑問だったのだが、この「138億年」というのは、あくまで「ここ(地球)」において観測可能な事実から導かれたもので、ほかの場所(たとえば、プロキシマ・ケンタウリbとか)から考えると必ずしも「138億年」になるとは限らない、ということなのか、と思った(これであってるかどうかは分からない)。

それでも、(ベルクソン的な)「絶対的現在」はあり得ると考えている物理学者もいて、リー・スモーリンがその一人だと『時間は存在しない』の註に書かれていた。以前、リー・スモーリンを本を読んだ覚えがあるが、そういう、割と特異な立ち位置の人だったのか、と知った。